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【文化人類学】雛祭り その起源にみる身代わり信仰

いらっしゃいませ! 人文社会科学LABOへようこそ! こちらでは、こんなことしてます。よろしければ、ご覧になってみてくださいね。

miyamot.hatenablog.com

前回の記事からかなり間が空いてしまいました。皆さんお久しぶりです。

なかなか書けずに月を跨いでしまい、もう3月。今日は雛祭りですね。はてなブログでも今週のお題は雛祭りだそうです。雛人形を飾ったり、ちらし寿司の用意をしたりする方も多いのではないでしょうか。

ということで今回は、雛祭りの起源やそこに読み込まれた呪術的要素について解説していこうと思います。

お祝いの日になんですが、少しネガティブな部分もありますので、ご注意いただければと思います。

それではいってみましょう!

 

 

1.雛祭りの起源

まずは、雛祭りの起源について見ていきましょう。

ここでは、様々ある起源についての諸説で有名なものを解説していこうと思います。

1-1.節句

雛祭りの日である3月3日は、上巳の節句とも呼ばれます。これは、中国由来の風習で、雛祭りの起源に深く関わっているので、まずはこの節句を理解していきましょう。

  • 節句:中国の陰陽五行説に由来する季節の節目の日。各節句に年中行事が行われる。

この考え方は、飛鳥時代もしくは奈良時代に日本に伝来したとされています。かつては細かく各節目に年中行事が行われていましたが、現在では5つが残っており、五節句と呼ばれています。

少しまとめておきますね。

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五節句の日付と節句料理

これらの興味深いところは、すべての節句が奇数月と奇数日になっているところですね。

なぜこんなことになっているのか。そこには陰陽五行説、とりわけ陰陽説の考え方が出てきます。

  • 陰陽説:この世の森羅万象すべてを、「陰」と「陽」にカテゴライズし、そのバランスでこの世の存在や現象を説明しようとする中国由来の二元論的な考え方。

全てを「陰」「陽」に分けるわけですから、もちろん数字もその対象となります。

陰陽説では、偶数が「陰」奇数が「陽」とカテゴライズされます。整数は偶数(陰)と奇数(陽)が無限に繰り返されることで調和しているというような考え方です。(整数の範囲外では、偶奇の判別がつかない数があるかもしれませんので、とりあえずイメージするものとして考えていただければと思います。)

偶数と奇数の違いは、2で割り切れるか否かです。奇数は割り切れませんね。このことから別(分)れない、割れない、堅固なというイメージが付加されて、奇数は縁起の良い数となりました。偶数はその逆で縁起が悪い数となます。

では、奇数が並んでいるこの節句は、かなり縁起の良い節目になりそうですが、そうではありません陰陽説的にはこれは陰陽のバランスが取れた状態ではないですね。

陰陽説の有名な言葉にこんなものがあります。

「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず。」

つまり、陰と陽どちらもいき過ぎれば、その反対のものに転化するということですね。この考え方に従うと、上記の五節句は陰に転化して縁起の悪いものになってしまいます。

だから、上記の図のようにその時期ゆかりのものを体に取り込んで厄災から身を守ろうとするわけです。

節句と言えば、今では縁起のいい日となっていますが、もともとは縁起の悪い日だったわけですね。何とも興味深いです(笑)

ここから五節句は、不吉なものや災いから身を守るための行事が発展していきます。この節句が伝わったのが飛鳥時代もしくは奈良時代になります。

では、日本ではどのような行事になっていったのか見ていきましょう。

1-2.禊祓(みそぎはらえ)と流し雛

陰陽五行説が日本に伝わったのが6世紀初めになります。この影響を受けて、日本では禊祓という習慣が根を下ろします。

  • 禊祓穢れを除去し、心身を清めること。ただし、ここでの罪や穢れは死や病気、性交といったものや現代の犯罪なども含む包括的かつ宗教的な概念。特に穢れ(死や病)は、他者に伝染すると考えられ心身を清めることが必須とされた。

この禊祓は後に天皇が穢れから心身を清めることで国家の穢れを除去し、厄災を退け国家安寧を願う大祓という行事に発展します。

さらに、皇族や貴族社会が繁栄した平安時代になり、節句の習慣も加わり禊祓もバリエーションに富んでいきます。そのなかで流し雛と呼ばれる行事が登場しました。

  • 流し雛上巳の節句人形に息を吹きかけ、自分の厄災や穢れを移し、川などに流すことで身を清める行事。陰陽師の祈祷とともに行われた。

これが次に解説するひいな遊びとともに雛祭りの原型とされる流し雛になります。

この流し雛が発展した背景には、陰陽師の隆盛当時の乳幼児の死亡率の高さがあります。

実は平安時代は、陰陽師が最盛の時代でもありました。そのため、こうした呪術的要素を多分に含んだ行事が多く、それらは陰陽師が取り仕切ることになっていたわけですね。

さらに、医療技術が発達していなかった当時を考えると想像に易いですが、乳幼児の死亡率は現代と比べてかなり高い状況でした。親は自らの子を厄災から守り、死や病といった穢れを広めないようにするため、代わりに厄災や穢れを引き受ける人形を子の枕元に置いていました。そして、流し雛その人形を流して子の厄除け(心身を清める)をするようになりました。

1-3.ひいな遊び

では、雛祭りの起源として流し雛と共に有名なひいな遊びについて見ていきましょう。

  • ひいな遊び平安時代の皇族や貴族の少女たちに流行した人形遊び

ひいなとは、小さな人形という意味になります。現代で言うところのおままごとですね。紙でできた人形にお供え物をする遊びになります。細かい内容は異なりますが、1000年前の少女たちも今の子と変わらずおままごとをして遊んでいたというのはなかなかロマンがありますね。

流し雛という呪術的な年中行事と子供の遊びであるひいな遊びが融合し、江戸時代少女の健やかな成長を願って雛人形を飾る日としての雛祭りとなっていきました。

2.雛祭りと身代わり信仰

1.では雛祭りの起源について見てきました。では、ここからがっつり文化人類学のお話に入っていきましょう。少し怖い部分もあるかもしれませんのでお気を付けください。

2-1.身代わり信仰と形代

身代わり信仰という言葉はなかなか耳慣れないかもしれませんが、この歴史はかなり古く、縄文時代にまで遡るとされます。

  • 身代わり信仰:人間の代わりに厄災を引き受けるものについての信仰。

典型例が土偶ですね。誰しも一度は目にしたことがあるあの人型の土人形ですが、実は出土した土偶の多くはどこかしらが欠損しています。それだけでなく、明らかに故意に破壊された状態で出土したものも多いんですね。

土偶が何のために作られたかについては諸説ありますが、有名な説として人間の身代わりとして使われたのではないかというものがあります。

例えば、膝が悪ければ土偶の膝を壊し回復を願うといった具合ですね。

これを裏付けるものとして形代の概念があります。

  • 形代:神霊や人間の霊魂が依り憑く対象物。

神木や注連縄が飾られる場所や社などですね。

これは、縄文時代に発生したアニミズム(animism)から出てきました。

  • アニミズム(animism):自然現象や自然物に霊的な存在が宿るとする考え方。

雨や雷などの天候はそこに宿る精霊や神の仕業だと考えるのが典型例ですね。

こうした身代わり信仰形代は、時代を経て前述の流し雛に受け継がれました。

つまり、流し雛で使われた人形というのは、形代としての役割を果たしていたわけですね。何というかちょっと怖い感じがするのは筆者だけでしょうか(笑)

では、なぜ水に流していたのでしょうか。

土偶では、厄除けしたい箇所の破壊をしていましたが、流し雛では人形を川に流していましたね。これは、一体どういうことなのでしょうか。

これはいろんな角度から説明ができますが、一つ大きな要因として、記紀(『古事記

日本書紀』)の存在は無視できません。

記紀には、日本を生み出したイザナギ穢れを水で流し心身を清めたという神話があります。ここから厄払いや穢れを落とすのには、水が不可欠になってきたというわけですね。

実際、流し雛だけでなく、雛祭りの起源に関係する禊祓大祓にも水が使われます。

3.まとめ 雛祭りの意味の変遷

いかがでしたでしょうか。

今回は、雛祭りの起源と祭祀的な側面について解説してみました。

現代では雛祭りの祭祀的な側面はほとんど失われて一種のお祝いイベント的なポジションとなっていますが、もともとは結構ネガティブな起源があったんですよね。

そう考えるとかなり雛祭りもかなり変わってきたと思いますが、文化は変化するのが常なので当たり前といえば、当たり前なのかもしれません。

少子化が進む日本では、それがかなりネガティブにとらえられていますが、子供が少ないなかだからこそ、雛祭りは新たな変容を遂げるかもしれませんね。そう考えると、少しワクワクしてしまう筆者でした(笑)

ということで、今回はここまでです。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【文化人類学】チョコを渡すと死刑!?アンチバレンタインデーのロジック

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記事を執筆しようと画面を開いたら、今週のお題「チョコレート」なんて言葉を見つけてようやくバレンタインデーに気づいたどんくさい筆者です(笑)

本当は別の記事を書こうと思っていたのですが、タイムリーな解説記事も書いてみようということで、今回はバレンタインデーについて解説していこうと思います。

ただ、バレンタインデーってかなり日本に浸透してて、その由来や歴史などを知ってる方も多いと思うので、今回は切り口を変えて文化人類学な視点からバレンタインデーを解説していこうと思います。

それでは、いってみましょう!

 

 

 

1.バレンタインデーとは

冒頭にバレンタインデーの由来とか歴史は知ってる人も多いから、視点を変えて解説するとか書きましたが、後々の解説のために一応簡単に説明させてくださいm(__)m

ある程度知っている方は読み飛ばしてもらっても大丈夫です。

1-1.バレンタインデーの歴史

  • バレンタインデーキリスト教圏由来の祝いの日。毎年2月14日に恋人同士が愛を祝う日。恋人同士でカードを交換したり、贈り物をしたりすることが多い。

辞書や辞典などでは、このように定義されることが多いですが、現代の日本ではこの定義は不正確になっていますね。恋人同士でなくともチョコレートを交換したり、愛というより、感謝を伝える意味で贈り物をしたりすることもありますからね。

この由来についてよく知られているのは、バレンタイン司祭殉教エピソードですね。

3世紀頃ローマ帝国クラウディウス2世は兵士の士気が下がるという理由で、兵士の婚姻を禁じたとされています。これを哀れんだバレンタイン司祭は、秘密裏に兵士とその恋人の結婚式を行いますが、クラウディウス2世にそのことがバレてしまい、2度と行わないようにと命令されました。

しかし、この命令に屈せずバレンタイン司祭は結婚式を行い続け、最終的に処刑されます。これが2月14日の出来事で、その死を悼み、恋人の日として祭日化していったというものです。

今回は割愛しますが、他にも由来についてはいろんな説があります。

2.アンチバレンタインデーな国

もともとは恋人同士の愛の日。そんな「LOVE&PEACE」なバレンタインデーですが、世界のなかには、これを嫌う国々もあります。

それはどんな国々なのか。なぜ嫌われるのか文化人類学的に見ていきましょう。

2-1.イスラム諸国の場合

まずは、イスラム諸国です。なかでもサウジアラビアやイランなどがバレンタインデーに批判的な国の代表格です。ここでは、先にこの2カ国でバレンタインデーがどのように扱われてきたのかを見て、文化という側面からまとめて解説していきます。

2-1-1.サウジアラビアの場合
  • 2004年 国内最高位の宗教指導者アブドルアジズ・アール・アッシャイフがバレンタインデー禁止のファトワイスラム法学に基づく見解)を出す。
  • 2009年 勧善懲悪委員会のサッターム・ビン・アブドゥルアズィーズがバレンタインデーを祝うことは最高刑として死刑がありうると発言。バレンタインデーが全面禁止になり、取り締まりが過激化。
  • 2018年 イスラームにおいてバレンタインデーは合法であるとの見解が示される

どうでしょうか。なかなか過激ですね(笑)

現在では、サウジアラビアでもバレンタインデーが認められていますが、一昔前までは死刑になる可能性があるほどの違法行為でした。

上記年表の言葉について少し補足をしておきますね。

サウジアラビアでバレンタインデーが違法行為だったとき、2月14日が近づくと勧善懲悪委員会が動き出しました。店の商品や装飾にバレンタインデー関連のものがないか見回りをし、発見したら回収したり、撤去したりするわけですね。

違法行為と化したバレンタインデーですが、勧善懲悪委員会見回りを強化する中でも人間の愛は止められなかったようです。国民は隠れてプレゼントを交換したり、渡したりしていました。もちろん、見つかれば逮捕されます。

最高刑は死刑ですからね。まさに、命がけの告白といったところでしょうか。

ちなみに、実際に死刑になった人はいなかったようですが、なんともソワソワしますね。

2-1-2.イランの場合
  • 2011年 バレンタインデーの贈り物の生産や宣伝の禁止。
  • 2013年 イラン中央税関がバレンタインデーに関する全製品の輸入を禁止に。

これまたなかなか過激ですね(笑)

イランでもサウジアラビアと同様に、現在では、若者を中心に浸透しています。年表の時期は、これらに違反した者には法的な罰則が付きました。死刑の可能性があったサウジアラビアですら、国民は隠れてバレンタインデーを祝っていましたから、イランでももちろん隠れて祝う国民がいました。

今回は具体例としてサウジアラビアとイランを挙げましたが、他のイスラム諸国でもバレンタインデーを禁止や抑圧する動きがありました。この現象は一体どういう理屈から生まれてきたのでしょうか。

2-1-3.イスラム諸国のアンチバレンタインデーのロジック

上記の2カ国の共通点は何でしょうか。

イスラム教国ということですね。ただし、この2カ国は単なるイスラム教国ではありません。シャリーアの影響が強いイスラム教国になります。順を追って解説しますね。

まずは、このシャリーアから理解する必要があります。

これはいわゆる法律的なものなのですが、単なる法律ではありません。このシャリーアには信仰や儀礼はもちろん、民法や刑法、行政法国際法などがまとまっています。国家運営に関するエッセンスがこれ1つにまとまっているわけですね。

上記2カ国は、シャリーア国政の主軸としており、その影響が強いというわけですね。実際、こういった国では、イスラムは人類普遍の教えであり、それに基づく社会で生きることこそが人類のあるべき姿だと考えられています一つの世界観というより、唯一絶対の世界観なわけですね。(他のイスラム諸国では、シャリーアを廃止していたり、シャリーアに加えて他の法律を主軸としている国もあります。)

シャリーアコーランハディースが元になっているので、当然にイスラム教徒としての敬虔さが求められてきます

ここまでを抑えてイスラム教の特徴をおさらいしておきましょう。

イスラム神はアッラーのみです。それ以外に神はおらず、唯一絶対の神様になります。そして、それは偶像として崇拝することを禁じられています。例えば、アッラーの像を作ったり、絵を描いたりすることはご法度です。キリスト教キリスト像や仏教の木彫りの仏などはイスラム教ではありえないわけですね。

では、どういう理屈で上記のようなイスラム諸国がバレンタインデーを禁止、抑圧するのかまとめましょう。

他の宗教行事を受け入れることは、イスラム教の絶対性を揺るがせる。」

これに尽きます。

偶像崇拝を認めているキリスト教のバレンタインデーを受け入れることは、イスラム教で禁じられている偶像崇拝を認めたことになりかねませんし、他の宗教を受け入れることでイスラム教由来の国家運営や文化、世界観が揺らいでしまう可能性があります。

そうしたことから、厳格なイスラム諸国では、禁止されることが多かったわけですね。

これはあくまで「文化」という側面に注目した場合に言えることです。もちろん、他にも要因は考えられます。例えば、イランは上記年表の時期に、核開発をめぐってアメリカと関係が悪化しており、政治的な観点からバレンタインデー禁止政策をとったとも考えられています。

2-2.インドの場合

他にも禁止とまではいかずとも、バレンタインデーに圧力がかけられた地域もあります。有名なのが、ヒンドゥー教国のインドです。

ヒンドゥー教の定義については様々ありますが、その特徴として多神教という点があげられます。前述のイスラム教と比較すると、他の宗教にも寛容そうな気がしますが、実際に寛容であることが多いです。

ではなぜ、圧力がかけられたのか、かけたのは誰なのか。

これは、ヒンドゥー至上主義原理主義とよばれる考え方の集団によって起きた現象になります。

  • 至上主義:あるものについて、それが最上のものであるとする考え方。
  • 原理主義宗教においては、教典や聖典、教義などに忠実に従おうとする考え方。

つまり、ヒンドゥー教こそが最上のものであり、その教えに忠実に従うべきだとする考え方の集団が、キリスト教の行事であるバレンタインデーに圧力をかけたということです。

なぜ彼らがこのように考えるかというのは、先ほどのイスラム諸国と似ています。

他の宗教を受け入れることで、ヒンドゥー教の文化が揺らいでしまう。」

具体的には、「Sri Ram Sena」というグループが、バレンタインデー禁止のポスターを張ったり、プレゼントの交換に使う商品を燃やしたりしました。

繰り返しになりますが、これは一部の集団によるものです。インドの方が全員そういうわけではなく、むしろかなり多くの人々はバレンタインデーを1つのイベントとして受け入れて祝っています。

では、イスラム諸国とインド、場所も宗教も違えど似たようなことが起こるのは何でなのでしょうね。

2-3.インドとイスラム諸国の共通点を考える

日本人からするとなかなか理解しにくい感覚かもしれませんが、大昔から宗教は人間の世界観の形成に大きな役割を果たしてきました

これは、かなり重要なことです。見たり聞いたり、考えたり思ったりという人間が当たり前にすることの全てを「宗教を通して理解するわけですからね。こういった点は、今でも宗教の一つの役割として残っています。

でも、これが揺らいだらどうでしょう。

特に、この宗教こそがすべてだと考えている人々にとっては、自分という存在に関わってくるため、大変なことです。ちょっとしたカルチャーショックどころではありません。

だから、自分が信じている宗教の世界観が揺らいでしまうことがあってはいけないと考えられることがあるわけですね。

今回挙げたインドの一部とイスラム諸国は、この考え方をしているわけですね。

つまり、宗教そのものが不寛容なのではなく、それを解釈する人間側がバレンタインデーへの圧力を引き起こしたということになります。

3.まとめ 日本の場合

いかがでしたでしょうか。今回はアンチバレンタインデーの現象を文化人類学的なトピックである宗教と絡めて解説してみました。

日本の場合だと、バレンタインデーはキリスト教の行事ということは認識されていますが、宗教儀礼ということはほとんど認識されていませんね。これはなかなか興味深いところです。

だから、元来の宗教儀礼としての形式なんてものは気にされず、日本のバレンタインデーは独自の形態になってきました。

チョコレートを渡すのもその一例ですね。

もともとは贈り物や交換などは行いますが、何もチョコレートとは決まっていませんでしたね。それが、お菓子屋さんの販売戦略としてチョコレートが贈られるようになったというのも有名な話です。

日本では女性からチョコレートを送るとされていますが、これも他の地域では異なります。最近では、これが男尊女卑ではないかと言われることも多くなってきましたね

日本でのバレンタインデーがどれほど男女格差に影響を与えているかはわかりませんが、この時期の日本人女性は時間的にも体力的にも精神的にもコスト的にも負担があるということには変わりないと思います。

他の宗教行に独自のアレンジを加えるのが日本のいい点だとしたら、男性から女性にプレゼントをしたり、お互いにプレゼント交換をしたりするなど、もっと自由なバレンタインデーになってもいいかもしれませんね。

ということで、今回はここまでです。

もらえた人ももらえなかった人も筆者からのプレゼントとしてこの記事を受け取ってもらえたらうれしいです。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【世界史】ミャンマーの近現代史 植民地時代から2021クーデターまでの流れ

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いきなりですが、ミャンマーでのクーデターなかなか大きな話題となっていますね。筆者としても衝撃的で、間違いなく歴史に刻まれる出来事だったのではないかと思います。

 

ミャンマーと言えば、ロヒンギャ問題が記憶に新しいですが、ここにきてさらに混迷を極めていきそうですね。

ということで今回は、先行き不透明なミャンマーを理解するための基礎知識として高校までの世界史をおさらいしてから一歩踏み込んだ解説をしていきたいと思います。

 

 

1.ミャンマーとは

まずは、ミャンマーとはどんな国なのか基本中の基本をおさらいしておきましょう。

いろんな意味で日本と関わりが深い国なので、きっと聞いたことがある内容もあるかもしれませんね。一気にまとめて整理しておきましょう。

1-1.ミャンマーの基礎知識

まず位置ですが、地図を示しておきますね。

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次に基本情報をまとめておきます。

少し補足をしておきますね。

ミャンマー共和制(君主、王様などが治めてはいない)の国になります。国土は東南アジア本土最大であり、アジアのなかでは10位の面積を誇ります。日本が大体38万㎢なので、日本の大体1.8倍の広さですね。

人口については、大体7割がビルマ族です。その他の民族としてはカレン族カチン族ロヒンギャ族などがおり、多くの民族を抱えた多民族国家になります。

これらの民族はもちろん文化や風習も異なります。宗教については、人口の約9割が仏教徒(内8割以上は上座部仏教であり、残り1割のなかにはイギリス植民地支配の名残でキリスト教徒がいたり、バングラデシュと近いこともありイスラム教徒がいたりします。

今回のクーデターを考えるにあたって、人口構成と宗教、民族はキーワードになってくるので覚えておいていただけると分かりやすいかと思います。

2.ミャンマーの歴史

では、次にミャンマーの歴史についておさらいしていきましょう。ここからはガッツリ高校世界史の内容になってきますが、初めての方でも理解しやすいようにいくので気楽に読んでいってくださいね。

なお、今回は先日のクーデターに絡めた内容になりますので、論点は近現代に絞っていきます。

2-1.イギリス植民地時代

時は19世紀、ヨーロッパ列強がアジア諸国を次々と植民地化していく帝国主義の時代。ミャンマーがまだビルマと呼ばれていた頃です。年表をまとめておきますね。

  • 1765年 イギリス東インド会社がインドの徴税権と行政権を獲得。
  • 1824年~1826年 第1次イギリス=ビルマ戦争ビルマ敗北。領土割譲と賠償金を義務付けられる。)
  • 1851年 第2次イギリス=ビルマ戦争ビルマ敗北。ラグーンなどの一部地域がイギリス領に。)
  • 1885年 第3次イギリス=ビルマ戦争ビルマ敗北。ビルマがイギリス植民地化。インドとビルマをまとめてイギリスが支配するように。)
  • 1930年 反イギリス組織「我らビルマ人協会」(タキン党)が結成。
  • 1938年 タキン党アウンサンらによって反英独立闘争が激化。
  • 1940年 タキン党の幹部がイギリス当局により逮捕。タキン党は壊滅し、アウンサンは日本に亡命

ビルマのお隣インドでは18世紀後半、すでにイギリスが東インド会社(インド支配を行う機関)を設置し、周辺地域の支配権拡大を進めていました。

帝国主義の魔の手が伸びてきたのが1824年、イギリスがビルマ支配に動き出します。3度にわたるイギリス=ビルマ戦争によりビルマは敗北し、イギリスの植民地となりました。

ここで大事なのが、ビルマより前にイギリス植民地であったインドとまとめて支配したということになります。これには分割統治と呼ばれる方法がとられました。

  • 分割統治:被支配者同士を争わせることで統治を容易にする手法。

具体的にどうやったか。

支配者のイギリスは、被支配者であるビルマ内部に対立構造を作り出します。以前から支配していたインド(厳密には現在のバングラデシュ)からイスラム教系のロヒンギャ族ビルマに労働力として連れてきました。

イスラム教系のロヒンギャ族と仏教系のビルマ族。文化や風習、価値観などが違いますからうまくいかないことも多いです。こうしてビルマ内部に不和を生むことでイギリスに反旗を翻す隙を作らせないようにしたわけですね。これが後々の民族問題として尾を引いていきます。

分割統治のイメージ図を載せておきますね。

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イギリスによるビルマの分割統治

こうした中で、イギリスによる支配や他民族との接触ビルマ族民族意識の高まりに繋がっていきました。

1930年ビルマの完全独立を目指して「我らビルマ人協会」(タキン党が結成されます。ところが、激しい運動によって1940年に幹部の多くはイギリス当局によって逮捕されてしまいました。このとき、タキン党幹部の一人であるアウンサンは日本に亡命します。彼は、今回取り上げたニュースのアウンサンスーチーの父親になります。繋がりが見えてきましたね。

2-2.日本軍政時代

日本に亡命したアウンサンは、イギリスをビルマから排除し、完全独立を達成するための準備を進めます。一方、日本はというと日中戦争1937年~1945年真っ只中でしたが、中国を攻略できずにいました。

  • 1937年 日中戦争が勃発。
  • 1940年 アウンサンが日本へ亡命。
  • 1941年 太平洋戦争が勃発。アウンサンビルマ独立義勇軍(BIA)設立。
  • 1942年 日本軍ビルマを占領。
  • 1943年 日本がビルマ形式的な独立を認め、ビルマ国が誕生。
  • 1945年 アウンサン主導の反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が抗日武装闘争を開始。

こうした状況の中で、ビルマ完全独立を目指すアウンサンの亡命は、日本に新たな一手を計画させます。ビルマ親日政権ができたら日中戦争を優位に進められるし、イギリス植民地の最大拠点であるインドへの侵攻もしやすくなると。

ビルマからイギリスを排除したいアウンサンと中国やイギリスに対抗するための新たな拠点が欲しい日本の利害がイギリスが邪魔だという点で一致したわけですね。

そして、1942年アウンサンは日本軍のビルマ侵攻に加わり、ビルマからイギリスを排除することに成功します。

問題はここからですね。

日本はビルマを新たな拠点にしたいわけですから、もちろん親日政権を設置します。それがビルマ国です。アウンサンはどうでしょうか。日本の傀儡政権が欲しかったわけじゃないですよね。目指したのは完全独立です。どの国からも指図を受けない独立国家を樹立したかったはずです。ここで意見の相違が出てきます。

これに対して、日本は一応ビルマの独立を認めますが、これは形式的なものに過ぎず、実質的には親日政権が継続しました。

ここからアウンサンの戦いは、敵がイギリスから日本になり、1945年から抗日運動を展開していきます。しかし、この運動は長続きしません。1945年は何の年かわかる方も多いかもしれませんね。

そうです。第二次世界大戦の終了(日本の敗戦)の年ですね。日本はビルマから手を引き、この年以降再びイギリスとの戦いが始まります。

2-3.独立

1945年の日本にはもう戦える力は残っていませんでした。

何度も作戦失敗を繰り返し日本が敗戦も秒読みというなか、ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を率いるアウンサンイギリスと手を組んで日本と戦います。これは2-2.で見た日本と手を組んでイギリスを排除したのと構造は同じですね。イギリスと日本が入れ替わっただけです。結果、日本の排除には成功しますが、せっかくビルマを取り返したイギリスが独立を許すはずもなく、イギリスの支配が復活します。

  • 1945年 アウンサン主導の反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)やビルマ国民軍(ビルマ独立義勇軍(BIA)の後身、通称国軍)がイギリスと手を組んでビルマ国から日本を排除イギリスのビルマ支配が復活
  • 1947年 アウンサンがイギリスとの独立協定に調印。その後、アウンサン暗殺。
  • 1948年 「ビルマ連邦としてイギリスから独立。(初代首相ウー・ヌ)

ビルマの完全独立に向けて戦いを繰り広げたアウンサンですが、イギリスとの独立協定を結んだ後、独立まであと一歩というところで国内の政敵の手により暗殺されてしまいます。積年の夢であったビルマの独立をアウンサンはついに見ることはありませんでしたが、彼の死の1年後にビルマ議会制民主主義ビルマ連邦として独立を実現します。

ここまでがビルマミャンマー)独立までのお話になります。ようやくここまで来たって感じですね(笑)

戦争や民族同士の争い、アウンサンの死など多くの犠牲を払って実現した独立。めでたしめでたし。とはいかなかったんですね。ここからビルマミャンマー)は内政問題に直面していくことになります。

2-4.独立後の内憂

ここからは先日のクーデターとの繋がりがより濃厚になってきます。民族や宗教、政治的思惑が絡んだ複雑な内政問題について見ていきましょう。

2-4-1.軍部独裁時代 ビルマ連邦社会主義共和国

まずは、政治的な内政問題から見ていきましょう。

ビルマ連邦議会制民主主義の国として出発します。当然、これは政治的な派閥を生み出します。

  • 議会制民主主義:国民の代表機関である議会が、立法という形で国の意思決定を行う政治体制。代議制民主主義、間接民主制とも呼ばれる。

今の日本の政治形態を想像してもらうと分かりやすいかと思いますが、要するに話し合いで国のことを決めるということになります。ぱっと見はみんなの意見が出そうでいい気がしますが、これは悩ましい点もあります。

学級会とかでもありませんでしたか。結論が出ずに延々と話し合いが終わらないこと(笑)

政治でもこれが起こりうるわけですね。とはいえ、永遠に議論を続けても何も決まらないから最終的には伝家の宝刀「多数決」をとります。

多数決ということは自分と同じ考えの人が一人でも多くいてほしいので、グループができるわけですね。これが政治的な派閥(政党など)になってきます。

少し前置きが長くなりましたが、まとめると「独立後の国の主導権を誰が握るか問題」が発生したわけですね。

ビルマの独立には多くのアウンサンだけでなく、その他多くの国内勢力も助力しました。そんななかでようやく勝ち取った独立です。自分たちのことは自分たちで決めたいと各々の勢力が思うことは自然ですね。これは、政府が一枚岩にならない大きな原因になりました。

さらに、拍車をかけたのが、「国内の民族意識の高揚」です。

多民族国家ビルマ連邦ではいろんな意見があり、政治勢力も分化しやすいというのは想像できるかもしれませんが、なかにはビルマ連邦に反対の民族もいました。自民族だけの国家を作ろうと考える民族も一定数いたというわけですね。

特にタイ系のシャン族や漢民族系のコーカン族などは独立意識が高く、キリスト教徒が多いカレン族やカチン族は仏教系のビルマ民族が大多数を占める「ビルマ連邦」に対して反発していました。

こうした反乱や反発を悉く鎮めて立場を強めた勢力があります。それがアウンサンが組織したビルマ独立義勇軍(BIA)の後身、ビルマ国民軍(国軍)でした。

当時の国軍のトップはネウィンと呼ばれる人物で、彼が国軍を率いてクーデターを起こします。リーダーシップを発揮できない政府や国家一丸を阻害する議会制民主主義の制度に反発するものでした。

具体的には、政党がビルマ社会主義計画党(BSPP)しか許されず、国家機関の役職はすべて軍人か退役軍人が独占するようになっていきました。バラバラな国家をまとめ上げ、自分がビルマを率いていこうという意思が感じられますね。

こうしてビルマ連邦は、1974年ネウィンが指揮する一党独裁の軍事政権国家ビルマ連邦社会主義共和国として新たなスタートを切っていきます。

2-4-2.アウンサンスーチーの登場と国号「ミャンマー」へ

国軍を率いるネウィン主導のビルマ連邦社会主義共和国はどうなったか。

ネウィンはやはり軍人だったのかもしれません。武力で政権をとる戦いのことはわかったかもしれませんが、政治のことはわからなかったようです。うまくいきませんでした。

独自の社会主義システムで国家運営を試みましたが、これを強引に進めた結果、経済混乱貧困の増加などを招き、当時の社会主義あるあるな道を辿っていきます。

こんな状況を国民が快く受け入れるはずもなく、当然、民主化運動が起こり、いよいよアウンサンの娘であるアウンサンスーチーが登場します。

  • 1988年3月13日 首都ラングーンで大規模な民主化デモが発生。国軍の発砲により学生が死亡。全国各地へ民主化デモが波及。
  • 1988年7月23日 ネウィン退陣。(退陣後も影響力は持つ
  • 1988年8月8日 一党独裁の打破を目的とした大規模な民主化デモが発生。国軍はこれに無差別発砲を行う。
  • 1988年8月26日 アウンサンスーチー民主化を求める演説を行う。民主化運動の象徴的存在へ
  • 1988年9月18日 ネウィンに代わって国軍の実権を握ったソウマウンが軍事クーデターを起こし、独裁軍事政権が復活。国号「ビルマ連邦」へ。ただし、複数政党制の実現と総選挙の実施を約束
  • 1988年9月27日 アウンサンスーチー国民民主連盟(NLD)を結成。
  • 1989年 アウンサンスーチーが軟禁される。国号「ミャンマー」(首都はラングーンからヤンゴン)へ
  • 1990年 総選挙の実施。国民民主連盟(NLD)の圧勝軍部は政権の移譲を拒否。

1988年の一連の民主化運動を8888民主化運動と呼びます。

多発する民主化運動に軍部は容赦なく武力行使を行っていきましたが、それでも国民の勢いは止められず、ネウィンは退陣に追い込まれ、ビルマ社会主義計画党(BSSP)一党独裁は崩壊しますが、彼はこの後も影響力はもち続けてデモに対して軍部の発砲は止まりませんでした

そんななか、アウンサンスーチー民主化を求める演説を行ったことでビルマ民主化の象徴となっていったわけですね。

一方、ネウィンが退いた軍部では、このままでは埒が明かないと軍部のソウマウンビルマ社会主義計画党(BSSP)の政治的空白を狙って軍事クーデターを起こします。これによって再び軍事政権が復活するのですが、ソウマウン複数政党制の実現総選挙の実施を約束します。

こうして来るべき選挙に向けて多くの政党ができ始めました。アウンサンスーチー国民民主連盟(NLD)を結成し、選挙に備えたわけですね。

このまま民主化を実現していきそうな気配がしますが、軍部にそのつもりはなかったようです。

総選挙1990年に実施で、アウンサンスーチーはその1年前に軟禁され、外部との接触を禁じられます。このタイミングあまりにもきな臭いですよね(笑)さらに、アウンサンスーチー不在のなか行われた総選挙では、国民民主連盟(NLD)が圧勝したにもかかわらず、軍部は政権移譲を拒否しました。これには政権を手放したくないという態度が露骨に出ていますね(笑)以降、アウンサンスーチーは軟禁と解放を繰り返すことになります。

ちなみに、軟禁が開始された1989年に国号がミャンマーへと変わっています。ここからなじみ深いミャンマーの国名になったわけですね。

2-4-3.国際的関心の高まりとアウンサンスーチー政権の樹立

総選挙後、民主化は実現しないまま軍事政権が続き、アウンサンスーチーは軟禁状態。民主化を求める国民にとっては絶望的な状況でしたが、変化も起き始めます。

この時期に始まる「変化」のキーワードは国際的な関心の高まりです。

アウンサンスーチーノーベル平和賞受賞はかなり大きなきっかけになりました。他国の目が向けられることで軍部は形式的にでも民主化するつもりがあると示さざるを得なくなったわけですね。

ですが、やはり政権を渡すつもりはなかったようで首都をヤンゴンからネピドーへと移しています。ここはヤンゴンに比べてかなりの荒野地帯になります。娯楽施設や飲食店などはほとんどなく、民主化デモや反乱に備えた要塞にしたのではないかと言われています。

その後、軍事政権はさらに国際批判を浴びます。2007年ヤンゴンでの大規模な民主化デモに武力行使を行い、日本人ジャーナリストの長井健司さんが亡くなるという大変痛ましいことが起きます。他の外国人ジャーナリストも負傷したこともあり、軍部の武力行使には国内外から批判が相次ぎました。

そこから、憲法の制定総選挙の実施など表面上は民主化の体裁を整えますが、国際社会の目はもう欺けないところまで来ていました。批判だけではなく、経済制裁も加えられ、ついにアウンサンスーチーが軟禁を解かれます。その後は、年表の通りです。

ようやく国政のトップにたったアウンサンスーチーはどんな政治をしていったのでしょうか。

2-4-4.現在までのアウンサンスーチー政権

2015年から事実上、国政のトップに立ったアウンサンスーチー。ようやく実現した民政でしたが、軍部と民族はもちろん、新憲法も複雑に絡み合ったなかで進めていかなくてはなりませんでした。

実は、2015年総選挙アウンサンスーチーミャンマーの大統領候補になっています。ところが、憲法では配偶者が外国人の場合、大統領になれないという規定があり、外務大臣に留まりました。(アウンサンスーチーの配偶者はイギリスの方です。)そのため、アウンサンスーチーに代わって名目的な大統領が選出されることになります。

アウンサンスーチーはこの状況に対して、大統領はあくまで名目的な存在であり、行政の権限は自ら行使すると表明しました。実際に2015年以降、国家顧問や大統領府大臣など行政の要職を兼任することで、行政権を掌握しながら政治を進めていきます。

ここまででどうでしょうか。「あれ?なんか独裁っぽい...。」と思う方もいるかもしれませんね。実際、そういう評価もされています。

こうした見方が特に強くなったのは、2017年ロヒンギャ問題です。

この事件に対して、国際社会はアウンサンスーチー政権にロヒンギャ族の保護を求めます。しかし、ミャンマー政府は以前からロヒンギャ族バングラデシュからの不法移民とみなしており、今でも差別や迫害が続いています。これにより実質的に政治のトップであるアウンサンスーチーに批判が集中するようになりました。

アウンサンスーチーロヒンギャ問題の解決に動き出さなかった理由については、様々な見方があります。以下、よく言われているものを2つ挙げておきますね。

  • 人口の70%がビルマ族、90%が仏教徒を占める国内で円滑な政治をするためには、彼らの支持を失う可能性があるロヒンギャ族イスラム教徒)の救済に乗り出せなかった。
  • 憲法上でも政治について一定の影響力をもつことが保障されている軍部が起こした事件を批判することで、円滑な政治ができなくなったり、クーデターを起こされたりすることが懸念された。

今あげた見方は主要なものの一部です。他にも様々なことが言われていますが、何にせよ、国内の政治勢力や民族、宗教、憲法など多くの視点から政治を行う必要があるということには変わりありません。

こうした状況の中で2020年11月総選挙が行われ、アウンサンスーチー政権の2期目が決まりましたが、その3か月後の2021年2月、軍部のクーデターによりアウンサンスーチーは拘束されました。

3.まとめ 民政派と軍政派の戦いは終わっていない

いかがでしたでしょうか。今回は、ミャンマー近現代史を一気に見てみました。

ここまでの内容を踏まえて今回のクーデターを考えてみると、そこには「民族」「軍部」「憲法というテーマが浮かび上がってきます。

ミャンマーの民主政治は、イギリス植民地時代から続く民族同士の不和や軍部との関係を憲法に従って調整しながら進めなければなりません。民族問題と軍部については、お分かりいただけたかと思うので、ここでは憲法について補足して、終わりにしたいと思います。

2-4-4.で軍部は憲法上一定の影響力が認められると書きましたが、具体的に見てみましょう。

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ミャンマー憲法改正規定

この他、安全保障分野の閣僚も軍部が務めるなどの規定もあります。

この規定のため、アウンサンスーチーが軍部の排除を目指して憲法改正をしようにも現憲法では上記図のように規定されているため、簡単にはいかないわけです。民族問題もある中で498議席全てをとらないといけないわけですからね。

軍部を排除できないなら、うまく付き合っていく他ありませんが、ここまで読んでみてどうでしたでしょうか。アウンサンスーチーは軍部とうまく付き合えていたでしょうかね。

ミャンマーの近現代は民政派と軍政派の戦いの歴史でもあります。それは、アウンサンスーチー政権の樹立によって終止符が打たれたわけではなく、いまだに続いているということを思い知らされる事件だったと筆者は考えています。

ということで、今回はここまでです。

今回はミャンマー近現代史に絞り、他国との絡みは割愛しています。そこも考えるとより深い理解に繋がるかと思うので、気になった方はぜひ調べてみてください。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【日本史】真言宗の世界観 「宇宙にお寺ができる」とは

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先日、いつものようにニュースを見ていると、なかなか面白いニュースが出てきたので今回はそのニュースに関連した解説をしていこうと思います。

そのニュースがこちらです!

どうですか?なかなか面白い試みですよね!これで地球外の宇宙に仏教を象徴するお寺ができるんですから、まさに宇宙時代って感じです。

ちなみに今回この試み行う京都の醍醐寺は仏教のなかでも真言宗のお寺になります。

ということで今回は真言宗について解説していきます。なぜ、醍醐寺が宇宙進出に動き出すのか。もしかすると少しわかるかもしれません。

それではいってみましょう!

 

 

1.真言宗

真言宗と言えば、平安時代の仏教の宗派の一つで、開祖が空海ですね。中学生までの知識だとこの辺まで学びますが、高校の日本史ではもう少し詳しく学びます。

まずは高校までの日本史の内容を見てから今回の宇宙進出について見ていきましょう。

1-1.奈良仏教

平安仏教として真言宗が出てきた背景には、その前の奈良仏教が大きくかかわってきます。まずは、そこから見ていきましょう。

紀元前5世紀ごろ、ガウタマ=シッダールタが仏教を開き、6世紀中ごろ(飛鳥時代)に日本にも仏教が伝来します。その後の奈良時代に仏教は鎮護国家思想と相まって発展します。

  • 鎮護国家思想:仏教によって国家の安定を図ろうとする考え方。

この考え方自体は小学生でも習いますが、ここで大切なのは、上記の赤い下線部になります。

つまり、奈良時代の仏教は、大規模な国家プロジェクトであったという点です。そんな一大事業に関わるわけですから、当時の僧(仏教のお坊さん)は海外から入ってきた仏教を理解することができるスーパーエリートでした。

そうしたこともあり、当時の仏教は多くの民衆にわかりやすく広げていくものというより、僧(仏教のお坊さん)が仏教の神髄に迫るために研究していくものという意味合いが強かったわけですね。

この状況で出てきたのが、南都六宗と呼ばれる仏教の各グループです。

それぞれが行ったのは布教というより、仏教理論の研究です。ですから、宗派ではなく学系と定義されるわけですね。ちなみに、行基という人物を習った方も多いかと思いますが、彼は南都六宗法相宗の出になります。

少しイメージをまとめると、奈良時代は僧(仏教のお坊さん)が仏教の研究者で南都六宗が研究機関だと思ってもらうとわかりやすいかもしれません。

1-2.平安仏教

奈良時代に1つの研究体系として国家に組み込まれた仏教ですが、これはマズい状況も生み出しました。

今回は詳しい解説は省きますが、南都六宗法相宗から道鏡という人物が登場します。彼は僧(仏教のお坊さん)でありながら、当時の身分のトップである天皇を差し置て政治の全権を掌握するにまで至ります。

とはいえ、やはり僧(仏教のお坊さん)です。当時の天皇や貴族中心の身分制度が敷かれた社会では、彼の政治は受け入れられませんでした。死後も評判はかなり悪かったようで、日本三悪にも数えられています。(※最近の研究ではこの評価の見直しがされているようです。)

こうした状況を踏まえて、平安時代では仏教が政治に関与することを嫌う風潮が出てきました。しかし、今まで仏教は国家プロジェクトとして発展してきたわけですから、主要な南都六宗はなかなか政治から切り離せない。

そこで、南都六宗に替わる新たな仏教が望まれるようになり、出てきたのが平安仏教になります。

平安仏教は、最澄天台宗空海真言宗になります。

簡単に図で比較してみましょう。

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今回は真言宗に焦点を絞るので違いについては、ざっくりでも構いません。また、わからない言葉が多いかと思いますが、真言宗については後述するので焦らなくて大丈夫です。

早速、天台宗と比較しながら真言宗の大枠を掴んでいきましょう。

1-3.真言宗の考え方

先に論点を示しておきますね。真言宗の宇宙進出を理解するうえで大事なポイントは、奈良仏教と平安仏教との違い真言宗天台宗との違いの2点です。

先程示した図とこの2つの視点を頭に入れて見ていくと整理しやすいかと思います。

1-2-1.密教顕教

まずは顕教密教の違いについて見ていきましょう。

奈良仏教は一種の学問として僧(お坊さん、当時のエリート)によって研究されてきましたね。研究には専門知識や文献が欠かせませんが、南都六宗では、それぞれの仏典や仏教理論で研究をしていました。これらは、ことばや文字で理解することができます。間違った問題の解説を見て「あー、なるほど!」となるようなものです。こうしたものを顕教と言います。

  • 顕教:仏教で明示的な経典などから悟りを開こうとする考えや仏教の一派。

つまり、奈良仏教南都六宗顕教という特徴をもっていたわけですね。

一方で、平安仏教はというと密教がその特徴になります。

  • 密教:経典などの言葉だけでは理解できない部分にこそ悟りがあるとする考えや一派。

これはなかなかイメージしにくいところですよね...。

こんな話を聞いたことがありませんか?

厳しい修行によって思考が高次元に到達するとか、極限状況において何かが覚醒するとか。(なんだか怪しいと思われそうですが(笑))

つまり、言語化はできないが、ある種の真実や真理を体感するといったようなことですね。密教では、こういった状態を悟りとみなすわけです。

だから、奈良仏教のように経典など(言葉だけで理解できるもの)によって悟りを開くのではなく、言葉によらない悟り(体感する悟り)を目指します。

この考え方は、平安仏教での修行に現れてきます。例えば、真言宗では経典がありますが、その言葉そのものを理解するというより、行間も含めた経典の中にある意味やメッセージを読み取ろうとしますし、修行は精神的にも肉体的にも厳しいものになってきます。千日回峰行を聴いたことがある方もいるかと思いますが、これは天台宗の修行の1つですね。

難解な本を苦しみながらも何度も読み、あるときハッと理解するような感覚に近いかと思われます。

以上が密教の大枠になりますが、真言宗天台宗では密教の扱い方は少し異なります密教を本格的に導入したのは空海でした。時期的には最澄が先なのですが、確立していない部分があり、後に最澄の弟子(円仁円珍)によって天台宗密教が完成されます。

天台宗では、一時的に南都六宗顕教)との争いが生じますが、後に密教が完成されて仏教における総合学府的なポジションとなったことで、顕教密教も悟りの道として考えられるようになりました。一方、真言宗では悟りの道は密教のみであると考えられました。

1-2-2.大日如来とは

では、次に真言宗本尊について見ていきましょう。

仏教と言えば、開祖のブッダガウタマ=シッダールタ、お釈迦様、釈迦如来)をイメージする方も多いかもしれませんね。平安仏教天台宗でも本尊として信仰されていますが、真言宗の本尊はブッダではありません。

  • 本尊:信仰の対象となるもの。仏教では、仏や菩薩、彫刻、曼荼羅など。

上記の図を見てもらえるとわかるかと思いますが、真言宗における本尊は大日如来になります。先にどういった存在か簡単に説明しておきますね。

  • 大日如来この世の森羅万象を仏格化した存在宇宙そのものであり、この世のあらゆる存在と現象が大日如来とされる。

大日如来密教の中で生まれた存在になります。ここで重要になってくるのが、大日如来と仏教の開祖であるブッダとの関係です。ここも真言宗天台宗で異なってきます。

天台宗では大日如来ブッダ(釈迦如来)は同一同格とされますが、真言宗では最高次の存在を大日如来として、ブッダの存在も彼の悟りも大日如来の一面であると考えられています。つまり、大日如来ブッダの関係が天台宗では同格で、真言宗では同格ではないということになりますね。

なかなかイメージしにくいかと思うので、例を挙げてみますね。

エスが開いたキリスト教では、全知全能の創造主が最高神であり、イエスはその神の子として神の意志を伝ええるために、人間界に遣わされて存在になりますね。大日如来ブッダの関係もこれと似ています。大日如来最高神ブッダはイエスの立場に近いです。

ただし、上記の例はあくまで仏教における大日如来のポジションをイメージしやすくするためのものです厳密には多くの違いがあるということに注意していただけると幸いです

以上を踏まえて真言宗をまとめてみると、真言宗では密教によって宇宙そのものである大日如来と一体化するという意味での悟りを目指していくことになります。

1-2-3.曼荼羅(まんだら)

最後に密教芸術として有名な曼荼羅の解説と合わせて、真言宗の世界観を見ていきましょう。

密教とは、体感する悟りを目指したものでしたね。そして、真言宗では、宇宙森羅万象そのものとされる大日如来と一体化する悟りが目指されていました

でもこれ、いまいちピンとこない感じがしませんか?言葉のレベルを超えたところに悟りがあるというのは、なんとなくわかるとしても、どうやってそれを実現していくのか、なかなか難しそうですよね。

そこで用いられるのが、曼荼羅になります。密教の構造や世界観を目で視覚的に取り込み、それを心身に落とし込んでいくわけですね。

大日如来(宇宙)と一体化すると言っても、宇宙がどんなものか、一体化するとはどういうことかが全くイメージできなければ、真言宗が意図する悟りへの到達は不可能に近いですね。なんてったって言葉だけじゃ理解できないわけですからね。海図も航海術も分からない人が航路を確立するのは無理なのと同じです。

実際にどんなものか見てみましょう。

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両界曼荼羅胎蔵界

上記の曼荼羅両界曼荼羅と呼ばれるものになります。これは真言宗曼荼羅真言密教における世界観(宇宙の姿)になります。

中心に座しているのが大日如来で、その周りを他の仏や菩薩が囲んでいますね。大日如来が宇宙そのもので、すべての中心というイメージが視覚的にわかるようになっています。

少し補足ですが、1-2-2.の内容を思い出してみましょう。

真言宗において、大日如来は宇宙そのものでブッダもその悟りも大日如来の一面にすぎないと考えらていましたね。この曼荼羅に描かれた大日如来を囲む仏や菩薩は、すべて中心に座す大日如来の一面になります。だから、真言宗の宗派のなかには大日如来と同一視して他の仏や菩薩を本尊とするお寺もあります。

他にも曼荼羅は宗派や用途によって様々な種類があり、今でも儀式や修行で使われます。まさに、体感する悟りを目指した密教ならではの文化財ですね。

2.まとめ 宇宙にお寺ができるとは

最後に、今回の内容を踏まえて醍醐寺の宇宙進出について考えてみます。

今回、宇宙進出を試みる京都の醍醐寺は、真言宗のお寺になります。厳密には、真言宗醍醐派と呼ばれる宗派で、空海真言宗とは異なる面もありますが、密教寺院ということは間違いありません。真言密教の世界観は継承、踏襲されているということですね。

そう考えると、今回の宇宙進出は至極当然のように思えてきます。

近年は宇宙時代なんて呼ばれたりしますね。科学的にわからないことの方が圧倒的に多いですが、人類は確実に宇宙についての理解を少しずつ深めていっています。

「科学的に」と言うと「宗教」とは交わらない感じがするかもしれませんが、宇宙というテキストは人類共通です。その見方や考え方が異なるだけですから、宇宙観が変わったとき、科学と同じく宇宙という概念をもった真言宗の在り方も変容やアップデートされて何ら不思議ではありません。

今回のニュースはそれを象徴する出来事だったのかもしれませんね。ある時から科学と宗教は袂を分かち、進んできましたが現代になって両者は交錯し始めているのかもしれません。

私自身は何かしらの宗教の信者ではないため、地球外の天体に人類が住むということをイメージしたとき、宗教や信仰といった地球で形成された文化が地球外に輸出されることまでは想像できていませんでした。今回のニュースは、そこに気づきを与えてくれる出来事だったと思っています。地球の文化が宇宙へ進出する。なかなかロマンがありますね。

最後は筆者の感想まで入ってしまいましたが、今回はここまでです。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【日本史】【文化人類学】節分に残る言霊信仰と穀霊信仰

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2021年もあっという間に1か月が過ぎて、今日から2月ですね。今年の2月2日は節分になります。例年通りだと2月3日が節分ですが、暦のズレで今年は2月2日になるようですね。これは、124年ぶりのことだそうです!なんだかレアな気がしてちょっと得した気分です(笑)

ということで今回はこの節分を文系講師っぽく解説していこうと思います。

それではいってみましょう!

 

 

1.節分とは

節分と言えば、豆まきですね。無病息災や五穀豊穣を願って「鬼は外~、福は内~。」と豆まきをするのは、日本人なら誰しもが一度はやったことがあるでしょう。

でも、節分のそもそもの意味ってご存じですか?意外と知らなかったりするのではないでしょうか。ちょっと言葉の意味を見てみましょう。

1-1.「節分」の意味

  • 節分季節を分けること各季節の始まりの日(立春立夏立秋立冬)の前日のこと。

つまり、節分の翌日から各季節(春夏秋冬)が始まるわけですね。

となると、1年に4回(春夏秋冬の一回ずつ)あるはずなんですが、実際は4回もしませんよね。言葉の意味通りに考えると、少し不思議な感じがします。

何故、年に一回の2月に行われるようになっているのでしょうか。

1-2.節分の歴史

どのように節分が変化してきたのか、順を追って節分の歴史を少しだけ覗いてみましょう。

1-2-1.平安時代の「追儺

時代は平安時代794年1184年)の中でも国風文化の時代(800年代後半1000年代)に遡ります。よく貴族の華やかな生活や独自発達を遂げた日本文化がピックアップされる時代ですね。

6世紀中ごろ、日本に仏教が伝来した後も大陸(中国)の文化は流入してきていました。その中に追儺(大儺、鬼遣とも)」と呼ばれる行事があります。

  • 追儺晦日(旧暦の12月30日)に鬼(疫病神など)を払う儀式。弓と矢をもった人が目に見えない鬼を追い回し、陰陽師(祈祷師、神官)が祈りを捧げることで厄払いを行う。

続日本紀によると、700年代には行われていたようです。これが現在の節分の起源になると言われています。確かに、時期や厄払いの方法は異なりますが鬼を払うという目的は同じですね。

その後、国風文化の時代になり、これが年中行事として宮廷で整備されていきます。

追儺は、武士の文化が栄える鎌倉時代の前までは、宮中における貴族の年中行事として1年に4回しっかり行われていたようです。節分の本来的な意味と一致していますね。これが、室町時代になると今の節分に近づいてきます。

1-2-2.室町時代の豆まき

室町時代1336年1573年)の『看聞日記』『花営三大記』によると1425年には都の貴族や武士たちによって「追儺」で豆まきが行われていたようです。それまで宮中(貴族)の年中行事だったものが武士の身分にも浸透していたようですね。

これは、室町時代南北朝の動乱が大きな原因だと考えられます。朝廷貴族と武士が入り乱れる時期であったため、そこから武士のなかにも「追儺」が浸透していったのでしょう。

さらに、『臥雲日件録』によると1449年には「鬼は外、福は内」というフレーズもあったとされています。かなり近づいてきましたね(笑)

ここでいきなり登場する豆まき。どこから豆をまくというのが来たのでしょうか。

これはいろんな説があります。いくつか見てみましょう。

  • 壒嚢鈔(あいのうしょう)1445年1446年)にある宇多天皇が炒り豆(大豆)で鬼の目を潰して厄災から逃れたという伝説から。
  • 豆と魔滅、「マメ」の語呂合わせから。
  • 中国の大豆が鬼(疫病や毒)に効くとする言い伝えや五穀で厄払いをするという習慣から。

筆者としては、どれが正しくてどれが間違いということではなく、これらが複合的に影響して豆をまくという習慣が生まれたのではないかと考えています。

1-2-3.江戸時代に現在の節分に

室町時代以降は惣村(庶民同士の自治組織)や商業の発達により、一般庶民と武士の接触が多くなっていきます。これにより、今度は武士から庶民のなかへ「追儺」が浸透していきます。交通網も発達し、より庶民と武士の距離は縮まった江戸時代には、追儺」ではなく、「節分」の行事として豆まきが行われるようになりました。

これは江戸時代太陰太陽暦(旧暦)では、立春が大晦日(年越し、1-2-1.参照)と同じ時期になるため、立春の節分が特別視されていたためです。こうして、「節分」と言えば立春の前日のものという意味合いが強くなっていきました。

ちなみに、新年のことを「新春」とか「迎春」とかって言いますが、これは立春の節分が旧暦の年越しと同じ時期になるということの名残ですね。春を新生活のスタートや新しいことにチャレンジする季節と取れえるのもこういったことが影響しているかもしれません。

2.節分に見る日本人の信仰

1.では現在の節分になるまでを眺めてみました。次は、節分に残っている日本人の信仰について、ちょっと文化人類学的に見てみましょう。

2-1.言霊信仰

  • 言霊信仰:ことばには精霊や霊的な力が宿っており、ことばを発することで現実になるという考え。

「言霊」は今でも多くの日本人が信じていますね。私は常日頃それを意識するわけではないですが、塾講師ということもあり、受験シーズンは「落ちる」とか「落とす」といったネガティブな言葉には否が応でも気を付けてしまいますね。

言葉に対する信仰は古くからありましたが、それが「言霊」として意識されるようになったのは万葉集が編纂されたころです。そこから、祭祀に使われる祝詞呪詞呪言へと発展していきます。

1-2-2.で紹介した豆まきの由来について、豆を魔滅(マメ)と語呂合わせたという説を見ると言霊信仰の影が見えるかと思います。これは、単に語呂がいいというわけではなく魔滅(鬼や厄災、魔を滅する)を実現したいという思いが込められています

他にも宇多天皇の説だと魔目(鬼の、魔の目を潰す)を実現したいという思いも込められているわけですね。

2-2.穀霊信仰

次に節分の穀霊信仰について見てみましょう。

  • 穀霊信仰穀物に霊魂が宿ると考え、それを祀ることで豊作が得られるとする信仰。

豆で鬼を払うだけが節分ではありません。「鬼は外、福は内」というくらいなので、福も呼び込みたいとの思いが込められています。

ここで言う「福」とは何か。注目したいのが穀霊信仰です。これも複合的な原因が考えられますが、主要なものは日本人が農耕民族であったということでしょう。

紀元前4世紀頃、日本は弥生時代に入り、水稲農耕稲作が始まります。ここから時代を経るごとに稲(米)だけでなく、麦、黍、粟、ひえ、豆などの穀物が生産され、人々の生活を支えていくことになります。

見方を変えると、これらの穀物がないと生活ができない状況になっていったということですね。自然に左右される農耕において、生活ができるように人々は毎年豊作を願いました。こうして新年の幕開けに際し、無病息災と同時に五穀豊穣への願いが「鬼は外、福は内」という言葉に込められたわけですね。

 3.まとめ 過去の信仰に思いを馳せる

 いかがでしたでしょうか。今回は節分について解説していきました。

現代の日本は科学技術が発達し、人々の習慣や考え方、価値観も大きく変わってきています。それは別に悪いことではありません。むしろ、便利な世の中になっていいことの方が多いような気もします。

そんななかでも、だいぶ形式化していまいましたが、大昔の先人たちが様々な思いを込めてきた年中行事や習慣で残っているものもあるんですよね。そう考えるとなかなかロマンがあると思いませんか。

毎年の恒例行事として楽しむのももちろん大アリですが、連綿と受け継がれてきた物語に少し思いを馳せるだけでいつもとは違う味わいがあるかもしれません。

明日が節分で明後日が立春なので暦の上ではもう春が始まりますね。まだまだ寒すぎて春の感じがしませんが...(笑)

何はともあれ今や年に一度の節分ですから皆さん寒さに気を付けて楽しんでくださいね。

ということで今回はここまでです。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【日本史】北条時行 足利尊氏を恐怖させた神出鬼没の天才

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 私は鹿児島生まれのジャンプ育ちで、かれこれ20年以上は購読しているのですが、先週発売の週刊少年ジャンプである新連載がスタートしました。

タイトルは『逃げ上手の若君』魔人探偵脳噛ネウロ暗殺教室松井優征さんの新作になります。名作を手掛けてきた松井さんの新作にワクワクしながら読ませていただいたのですが、これが衝撃的でした‼

何と主人公が北条時行なんです‼

「え、誰それ?」って方も多いと思うのですが、そうなんです。彼は、高校の日本史にもホントにちょろっと出てくる程度で知らないもしくは、忘れている人の方が多いんです。だから、驚きました。この人を主人公にするのかと(笑)

でも、確かに彼の人生は少年漫画の主人公としてピッタリなんですよね

文字通り神出鬼没の戦いぶりで、あの足利尊氏を恐怖させた北条時行とはどんな人物だったのか今回は解説していきます。

それでは、いってみましょう。

 

 

1.北条時行

北条時行とはどんな人物だったかと問われたら、文字通り神出鬼没の天才と言わざるを得ません。現れては戦果を挙げ、逃げては霧のように姿を晦ます。そんな彼は一体どんな人生を歩んだのか、少し前置きが長くなりますが、まずは時代背景から見ていきましょう。

1-1.時代背景

彼は鎌倉時代の末期から南北朝時代初期の人物になります。1320年代から1350年代頃のことです。

幕府が存在している時代は、天皇と幕府を並行してみると理解しやすいと思うので、そこに注意して読んでいただけるといいかと思います。

先にこの時代の概略を年号でまとめておきますね。

概略内の鎌倉幕府1333年の滅亡まで得宗専制政治(幕府のナンバー2である執権の北条氏本家(得宗)が実質的に支配していた)の時代になります。

将軍をトップとした政治体制がどの幕府でも基本になりますが、このころの鎌倉幕府はナンバー2の執権と呼ばれる役職を代々北条氏の本家得宗が担うことで支配する形態になっていました。

要するに、リーダーよりその右腕が強くなっていたわけですね。当時の執権は北条高時北条時行の父親になるのですが、太平記『増鏡』によると病弱であまり政治をしない人物だったようで、他の家臣からは不満が募っていました。何故、あんな人物が権力をもっているんだという感じですね。

一方、そのころの天皇側はというと、皇位継承問題などで大覚寺統持明院統の2つの派閥でもめていました。1317年文保の和談はこれが原因ですね。結果、両統迭立両派閥が交代で皇位を担うということに決まりました。

なんだか、幕府側も天皇側もまとまってないですね(笑)

文保の和談によって丸く収まったかに見えた天皇側ですが、一代交代なので自分(派閥)の権勢を保つには不向きです。さらに、実権を握りたい天皇からしたら幕府は目の上の瘤ですよね。こうしたこともあり、大覚寺統後醍醐天皇は討幕を画策します。それが正中の変元弘の変ですが、どちらも失敗に終わり、北条高時によって後醍醐天皇隠岐に流されます

討幕計画が連続して失敗に終わり、隠岐に流された後醍醐天皇でしたが、あきらめません。隠岐から脱出し、三度討幕に動きます。その協力者が鎌倉幕府(当時の得宗専制政治)に不満を募らせていた家臣たちでした。足利尊氏新田義貞もそのなかに含まれます。2人は幕府を裏切った形になりますね。これにより、1333年鎌倉幕府は滅亡します。

翌年の1334年後醍醐天皇は早速、天皇の集権化を目的に政治を進めていきます。世に言う建武の新政の始まりですね。

しかし、これがまたうまくいきませんでした。

後醍醐天皇武士(元鎌倉幕府の家臣)の言い分を無視して天皇中心の政治を進めてしまったからです。当然、武士たちからは不満が続出します。

一枚岩ではない後醍醐天皇と武士。そんななか、滅んだ鎌倉幕府の生き残りで北条高時の息子である北条時行が挙兵します。幕府の再興を目的に後醍醐天皇に不満を持つ武士や北条氏の生き残りを従えて中先代の乱を起こしました。これにより、一時的に(約20日間)北条時行は鎌倉を占拠します。

この反乱は足利尊氏により制圧されてますが、この際、建武の新政に不満を抱えていた足利尊氏後醍醐天皇との亀裂が決定的なものとなります。

実はこの制圧の際、足利尊氏後醍醐天皇に命令されることなく、勝手に中先代の乱の制圧に向かい、後になって後醍醐天皇が認めるということが起こっていました。さらに、制圧後も部下の武士たちに勝手に恩賞(土地所有)を認めるということを行います。

これらがなぜ確執になったか。

実は建武の新政のなかで、上記の足利尊氏の行動はどれも天皇の命令や許可が必要な行為になっていました。それを無視して勝手にやってしまったわけですから、天皇中心の政治をしたい後醍醐天皇のメンツは丸潰れです。建武の新政に入って早くも言うこと聞かない武士が出てきたということですからね。

中先代の乱の制圧後、足利尊氏大覚寺統後醍醐天皇の命令を無視し続け、独自の(北条氏ではなく自らが支配する)幕府設立を目的に持明院統光明天皇を支持します。これにより、日本は南朝後醍醐天皇大覚寺統)と北朝足利尊氏光明天皇持明院統)に分かれる南北朝時代に入っていくわけですね。

なかなか複雑ですが、北条時行が生きた時代はざっとこういった状況になります。

1-2.挙兵以前

前置きが長くなりましたが、いよいよ北条時行その人自身について見ていきましょう。

北条時行中先代の乱で挙兵しますが、それ以前はどのような人生だったのでしょうか。適宜、上記年表を参照しながら読んでいただけると分かりやすいかと思います。

彼の出生年についてはわかっていませんが、兄の北条邦時1325年11月22日生まれとされているので、それ以降の誕生ということになります。

1333年鎌倉幕府滅亡時は鎌倉におり、新田義貞に攻められ、父の北条高時と一族が自害する中、何とか逃げ延びます。このころから、戦場を脱出する才の片鱗が見えますね。ちなみに兄の北条邦時も逃げますが、捉えられて処刑されています。

逃げ延びた先は北条氏ゆかりの土地である信濃、現在の長野県ですね。そこで諏訪頼重と出会い、成長していきます。諏訪氏は代々、北条氏に仕えた家臣であり、その当主であった諏訪頼重北条時行を深く愛し、北条時行もまた実の父のように諏訪頼重を慕っていたようです。

2.神出鬼没の天才

成長した北条時行中先代の乱で初めて挙兵しますが、ここから戦っては姿を晦ますという神出鬼没の才が覚醒していきます。具体的に見ていきましょう。

2-1.中先代の乱

1335年北条高時の弟である北条泰時幕府や北条氏の再興を計画していました。そこで、戦のトップとして北条高時の息子である北条時行に白羽の矢が立ち、中先代の乱が勃発します。

これにより、北条時行鎌倉を一時的に占拠します。見事かつての拠点を奪還したわけですね。ところが、これは長続きしません。足利尊氏により制圧されて僅か約20日の占拠となりました。北条時行の軍は壊滅状態に陥り、実の父のように慕っていた諏訪頼重と多くの家臣が自害するまでに追い詰められました。

その状況は凄惨極まりなく、自害した者たちは身元の判明を避けるために、全員顔の皮を剥いだ状態でこと切れていたとされています。そのため、戦のトップである北条時行も自害したものと思われていました

ところが、逃げ切っていたんですね。

2-2.南北朝時代

時代は南北朝時代南朝北朝が天下を争う時代)に入り、1337年中先代の乱から2年後のことでした。

中先代の乱で死亡したと思われていた北条時行がいきなり南朝後醍醐天皇のもとへ現れます。それだけでなく、鎌倉時代は敵側だった後醍醐天皇のもとで戦うことになったのです。

このとき、後醍醐天皇北条時行の間でどんな話し合いがあったのかは明らかになっていませんが、北朝側から見たら不気味すぎますよね(笑)

死亡したと思われていた北条時行が実は生きていて、かつての敵と手を組むわけですからね。実際、相当な出来事だったようで足利尊氏北朝側)にはかなり驚きの報せだったようです。

少し複雑に感じる方もいるかもしれませんので、ここまでの勢力図を簡単に示しておきますね。

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ここから北条時行足利尊氏のいる北朝勢力と各地で戦って戦果を挙げては雲隠れの繰り返しをしていきます。彼の活躍ぶりと最期までを年表で一気に見ていきましょう。

どうでしょう。筆者はヒットアンドアウェーの鬼って感じがします(笑)

北条時行の参加した戦は他にもありますが、中先代の乱に始まり、最後の武蔵野合戦までで少なくともこれだけの戦果を挙げ、逃走を繰り返しました。彼がただの逃げ上手だったというわけではないということがおわかりいただけるかと思います。鎌倉なんて、一時的にではありますが3度も取り返してますね(笑)

戦乱の世を駆け抜けた神出鬼没の天才は、20代半ばでその生涯を終えたとされています。

3.まとめ 足利尊氏が恐れた男

いかがでしたでしょうか。今回は日本史でもかなりマニアックな人物に入るであろう北条時行について解説していきました。

北条時行については、マニアックなだけあって謎も多く、様々な説があります。今回のでいうと、なぜかつての敵である後醍醐天皇と手を組んで足利尊氏と戦ったのかとかですね。

これについて、筆者の好きな説は、父の北条高時の政治に不満を抱いた後醍醐天皇天皇側)には納得していたが、それまで北条氏によって恩賞を与えられてきた足利尊氏(幕府の家臣側)が謀反を起こし、自ら天下を治めるということは許せなかったというものです。

なんだか人間臭い感じがして好きなんですよね(笑)

南北朝時代は、多くの武士があるときは南朝側にまたあるときは北朝側につくなんてことが多々ありましたが、北条時行は一貫して南朝側として足利尊氏率いる北朝勢力と戦っています

歴史に「たられば」は禁物と言いますが、もし先の説が正しいなら鎌倉幕府の有力家臣でありながら謀反を起こした足利尊氏を狙うのも納得できる気がします。

足利尊氏からするとこれは恐ろしいですね。戦に勝っても命がある限り、北条時行が狙ってくるわけですからね。心休まるときがありません。実際、北条時行の執拗さに足利尊氏は恐怖していたとも言われています

戦果を挙げては雲隠れを繰り返す神出鬼没の天才は、裏切り者に制裁を下そうと何度も甦る。少年漫画にぴったりだと思いませんか?

北条時行については、愛刀の鬼丸や生存説などまだまだ書きたいことがありますが、今回はこの辺でまとめにしたいと思います。

これからジャンプで北条時行の活躍が描かれると思うので、楽しみに読んでいきたいですね。

ということで今回はここまでです。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【文化人類学】文化人類学の概観 文化をもたない人間はいない

いらっしゃいませ! 人文社会科学LABOへようこそ! こちらでは、こんなことしてます。よろしければ、ご覧になってみてくださいね。

miyamot.hatenablog.com

最近、生徒に勧められてゴールデンカムイを見たのですが、めちゃくちゃ面白いですね(笑)学生時代に文化人類学の研究をしていたことを思い出しました。やっぱりいろんな文化を知ることは面白いですね!

そんなこともあり、まだ一回もやっていなかった文化人類学について今回は解説していこうと思います。

それではいってみましょう!

 

 

1.文化人類学とは

まずは文化人類学とは何なのかその定義や意味から見ていきたいところなのですが、細かい定義や意味は国や研究者によって若干異なるので、今回は大まかな輪郭をとらえるというイメージでいきます。ですので、いつものことですが、あまり堅苦しく考えずに大体のイメージをつかんでいただければと思います。

1-1.文化人類学の定義

  • 文化人類学:世界の様々な民族の「文化」を比較研究することで人類や社会の本質に迫る学問。

ここで少し注意が必要なことがいくつかあるので解説しておきます。

民族に関する学問だと民族学というものがありますが、日本の場合は民族学文化人類学ほとんど一致します。海外では異なった分類をすることもありますが、とりあえず日本では民族学文化人類学との認識で構いません。

次に「民族」や「文化」について、どういったものとして扱うのか(何を指すのか)は定義が必要です。「文化」については、後ほど解説しますのでここでは「民族」の定義とその解説を加えておきます。

  • 民族共通の言語共通の生活様式同一の集団に帰属するという意識をもった人々の集団。

つまり、①共通の言語、②共通の生活様式、③同一集団だという帰属意識原則この3つが満たされると一つの民族と認識されるわけですね。少し注意が必要なのが、①の言語についてです。これは、あくまで言語なので文字である必要はありません。つまり、共通言語があれば、無文字でも構わないわけです。

民族について、少し具体的に考えてみましょう。

日本国民は、まず日本語という共通言語をもっていますね。共通の生活様式だといろいろ挙げられますが、「いただきます」を言うとか墓参りをするとかです。帰属意識については、簡単に言うと「どこの国の人ですか。」と問われ、「日本です。」と答えるようなもので、日本人としての意識がある(日本という国に帰属している意識がある)ということになります。つまり、上記①②③を満たすので日本民族とカテゴライズできるわけですね。

民族の定義で重要なのは、先程の①②③はあくまで原則ということです。

例えば、日本には「アイヌ」と呼ばれる人々がいますが、彼らの生活様式は現在ほとんど失われています。ところが、どうでしょう。やはり、彼らは一つの民族だという印象が強いのではないでしょうか。この場合は、①や③にウェイトが置かれて固有の民族としてとらえられています。だから、「アイヌ民族」と呼ばれたりしますよね。

以上のことから、ここでご紹介した民族の定義はあくまで原則としてとらえ何を民族とするかは流動的だったりすると理解しておくとよいかと思います。(他の基準で民族を定義することもありますからね。)

1-2.研究対象と研究方法

次に、研究対象と研究方法について見ていきましょう。

まず、研究対象についてですが、現在は現存する文化すべてが対象」になります。

現在はというのは、文化人類学が始まった当初はもっと限定的な少数民族の社会や文化が研究対象でしたが、徐々にその対象は拡大していき、大国の農村や都市も研究対象になっていったという経緯があるためです。これについては3-1.でまとめます。

例えば、いかにも民族チックな儀礼や信仰、呪術などは文化人類学の伝統的な研究分野ですが、都市問題や文明の影響や変化を研究する都市人類学なんていうのも文化人類学の一分野になるわけですね。

次に、研究方法について見ていきましょう。

これについては参与的観察が原則フィールドワークがメインとなってきます。

  • フィールドワーク:研究者自身が研究対象の社会に入り、データを収集していく手法。

ここで少し注意が必要なのが、このフィールドワークは参与的観察が原則ということです。

  • 参与的観察:研究者自身が研究対象の社会に入り、長期的にその社会で生活しながらデータを収集していく手法。

単にフィールドワークというと一時的に研究室外で取材をすることもありますが、文化人類学のフィールドワークでは長期的な交流をもとにデータを収集していくことが原則にあり、これが一般的なフィールドワークと比べて特異な点になります。

これにより、なかなか数値化できない文化の価値観や考え方といった部分に迫る質的研究を進めていくわけですね。

  • 質的研究:数値化できない現象の理解、説明、解釈を目指す研究。

1-3.研究の諸分野

研究分野にについても時代を経るごとに拡大していき、厳密な分類が困難な分野もありますが、ここでは主要な分野の住み分けを列挙しておきます。

  • フィールドワークなどの方法論、学説史研究
  • 民族史、民族文化史研究
  • 言語人類学(言語の本質に関する理論や諸言語の比較等)
  • 自然環境や生業(狩猟、漁労、牧畜など)、民具、衣食住、技術、民芸の研究
  • 政治人類学法人類学経済人類学(親族関係や社会、政治、経済、人間関係など)
  • 宗教、儀礼、祭礼、呪術、信仰
  • 神話、民話、伝承
  • 民族音楽学(音楽、民謡、舞踊、劇)
  • 都市人類学(都市問題、都市文明、文明の影響や変化)
  • 躾や教育、人格形成、国民性の特色、文化と心理的適応、精神衛生
  • 映像人類学(映画による民族の生活習慣を記録する方法などについて)
  • 認識人類学(各文化の住民が自分の住む世界をどう認識しているのかについて)
  • 医療人類学(各民族の民間医療、病気治癒システムについて)

ぱっと挙げるだけでもこれだけあります。文化がいかに人間に欠かせないものか、広く浸透しているかがわかりますね。

繰り返しになりますが、ここで挙げた例は主要なもの(中にはニッチなのもありますが)の一部ですので、ご了承ください。

では、次に「文化」の定義について見ていきましょう。

2.文化とは

「文化」とは、何かと問われたら何と答えますかね。

これって結構難しいのではないでしょうか。なんとなく「文化」をもっている感覚はあるが、それが一体どんなものなのかは答えられないという方は結構多いのではないでしょうか。なんだか千差万別の答えがありそうな気もしますしね...。

文化人類学における「文化」とはどんなものなのでしょうか。

2-1.文化の定義

前述の通り文化の定義は、なかなか困難です。

これは文化人類学が明らかにしたい一つの概念でもありますが、研究者によっていろんな主張があります。ですので、ここではまず、文化という言葉のそもそもの意味を見て著名な研究者の主張を紹介した後に、簡単にまとめます。一般的な文化という言葉と文化人類学における文化の違いを把握していただけたら上々です。

  • 文化:①知性、教養。(文化人や文化的生活などの使い方)②生活様式日本文化、縄文文化などの使い方

文化人類学では、②の意味で使われます。ここを出発点にして、多くの研究者により具体化されていきます。どんな定義があるかいくつか見ていきましょう。

「知識、信仰、芸術、法律、風習、その他社会の成員としての人間によって獲得されたあらゆる能力や習慣を含む複合体の全体。」

エドワード・タイラー

 「後天的、歴史的に形成された外面的および内面的な生活様式の体系であり、集団の全員または、特定のメンバーにより共有されるもの。」

ークライド・クラックホーン

「ある社会の成員による諸行動を有意味にする暗黙の前提となっている考え」

ルース・ベネディクト

他にも多くの定義がありますが、筆者の独断で3者の定義を挙げてみました(笑)。

いかがでしょう。一語一句に注意して解釈してみると、特定の集団によって共有される点は共通しているように思えませんか。特に、ルース・ベネディクトの定義はしっくりくるのではないでしょうか。

ここからは、私見が入りますが、まとめてみましょう。

筆者は彼らの意見を踏まえて文化とは、人間というハードに読み込まれるソフトだと落とし込んでいます。

PCやスマホで考えると分かりやすいかもしれません。PCやスマホなどのハードにPCだとofficeやAdobeスマホだとTwitterやLINEといったソフトを入れることで様々なことができるようになりますね。

それと同じで、人間というハード文化というソフトを組み込むことで、その文化圏において適した行動をとる(生活様式に適応する)ことができるようになるわけです。

3.起源と変遷

では、次に文化人類学の起源と変遷を見ていきましょう。このテーマ(特に変遷)については、国や地域によって様々なので、大きく世界的な流れをご紹介していきます。

3-1.文化人類学の起こりと変化

先に年表でまとめますね。

  • 15世紀~17世紀 大航海時代コロンブスによるアメリカ大陸の発見など)
  • 18世紀 ヨーロッパ以外の地域に住む人々の慣習などへ関心が高まる
  • 19世紀 人類学人類に関する総合的な学問)が学問体系としての根を下ろす。
  • 1839年 パリ民族学会(世界初の民族学会)が誕生。
  • 1843年 ロンドン民族学会が誕生。ヨーロッパでの研究の中心地へ。
  • 1884年 オックスフォード大学で民族学が開講。(世界初の民族学の講座)
  • 1914年 マリノフスキニューギニアの調査を行う。(世界初の参与的観察
  • 1934年 アメリカにてインディアン再編成法が可決。(文化相対主義へ)
  • 1940年代 欧米や日本の農村も人類学の研究対象になる。
  • 1950年代 明国の都市も人類学の研究対象になる。

文化人類学の起こりは、大航海時代にまで遡ります。

ヨーロッパの人々が世界各地に進出した時代ですね。そこで、全く知らない「文化」をもつ人々に出会い、彼らと彼らの文化に関心が集まりました。初めは、純粋な好奇心から始まったんですね。

ところが、航路が確立し、交易圏が形成されてくると円滑な布教や通商の観点からヨーロッパ外の人々について理解をする必要が生じてきます。異文化を理解したいという目的から政策的な目的が中心になっていったわけですね。

そのため、当時の人類学はヨーロッパ中心主義に支えられていました。未知の民族社会を野蛮とか未開などと呼び、文明国であるヨーロッパ諸国が布教を通じて文明化させるとか、ヨーロッパ諸国が優位に貿易を進めるために他民族を研究するとかいったことが当たり前に行われていました。まさに、ヨーロッパ中心主義ですね。ヨーロッパこそ世界の中心、最も優れていると言わんばかりです(笑)

そんななか、トロブリアンド諸島にてマリノフスキが世界初の参与的観察を行います。この年は、第一次世界大戦が勃発した年ですね。これにより、マリノフスキーは帰国できなくなり、2年ほどトロブリアンド諸島に滞在することになりました。結果、彼は住民の言葉を理解し、共に生活することで彼らの文化を詳細に観察することができるようになっていました。ここから参与的観察文化人類学において重要な研究方法になっていったわけですね。

そして、1934年アメリカで可決されたインディアン再編成法により、文化人類学は大きな転換を迎えます。

ヨーロッパの入植以来アメリカでは、先住民のインディアンが支配されてきました。これもヨーロッパ中心主義の影響ですね。インディアン独自の文化や風習は野蛮、未開のものとされ、ヨーロッパ式の習慣を強制されるという状況でした。

この状況が何を機に変わったのか。1930年代アメリカで何があったか覚えていますか。一度は聞いたことがあると思います。ニューディール政策です。これによりアメリカでは内外の政策に改新がされていくわけですが、この一環でインディアンに対する統治にも見直しがされていくことになります。(具体的にどういう繋がりがあるのかは今回は割愛します。)

ヨーロッパの文明や宗教、価値観を基準にして一方的にインディアンの文化を判断してはいけないし、それを強制してもいけない。インディアンにはインディアンの固有の文化があるのだからそれを尊重すべきである。こうした考え方が広がり、法として整備されたのがインディアン再編成法になります。

そして、この見方が人類学者の共通の認識となっていきました。それまでヨーロッパ中心主義自文化中心主義だった文化人類学文化相対主義へと転換していったわけですね。

  • 文化相対主義全ての文化を独自の価値を持つ対等なものと捉える考え方。

こうして見ると、文化相対主義ってかなりいい考えに思えるかもしれません。今回は割愛しますが、これはこれで問題も孕んでいるということを覚えておいていただけたら幸いです。

4.まとめ 異文化理解と言うけれど

いかがでしたでしょうか。今回は文化人類学についてその概観を解説してみました。少しでも興味持っていただけたり、入り口になったりしたら嬉しいです。

あらゆるところでボーダレス化が進み、異文化理解や多様性が叫ばれていますが、言葉ではわかっていてもなかなか理解しあえないという状況は世界中にまだまだありますよね。

世界規模でなく個人間レベルでも考え方が合わない人とか嫌いな人っていうのは当然のように出てきてしまいます。いろんな人(文化、考え方)がいる(ある)と分かっていても、いざ自分と合わないものに出くわすと退けたくなるのはあるあるですね。

その退ける一択のところに他の選択肢の可能性を見出せるのが文化人類学のいいところだと筆者は思っています。文化人類学を学ぶと自分と異なるものを知り、歩み寄る可能性を探る思考が身につくと思うからです。

異文化理解や多様性を促す制度も増えてきていますが、社会的にだけでなく、個人レベルの精神的にも私たちが受け入れる態勢を整えることができたら、もっと寛容な世界になるのではなんて思ったりします。

なかなか難しいところですが、これからの私達と世界に期待しましょう(笑)

ということで今回はここまでです。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。