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miyamot.hatenablog.com
いきなりですが、ミャンマーでのクーデターなかなか大きな話題となっていますね。筆者としても衝撃的で、間違いなく歴史に刻まれる出来事だったのではないかと思います。
ミャンマーと言えば、ロヒンギャ問題が記憶に新しいですが、ここにきてさらに混迷を極めていきそうですね。
ということで今回は、先行き不透明なミャンマーを理解するための基礎知識として高校までの世界史をおさらいしてから一歩踏み込んだ解説をしていきたいと思います。
まずは、ミャンマーとはどんな国なのか基本中の基本をおさらいしておきましょう。
いろんな意味で日本と関わりが深い国なので、きっと聞いたことがある内容もあるかもしれませんね。一気にまとめて整理しておきましょう。
まず位置ですが、地図を示しておきますね。

次に基本情報をまとめておきます。
少し補足をしておきますね。
ミャンマーは共和制(君主、王様などが治めてはいない)の国になります。国土は東南アジア本土最大であり、アジアのなかでは10位の面積を誇ります。日本が大体38万㎢なので、日本の大体1.8倍の広さですね。
人口については、大体7割がビルマ族です。その他の民族としてはカレン族やカチン族、ロヒンギャ族などがおり、多くの民族を抱えた多民族国家になります。
これらの民族はもちろん文化や風習も異なります。宗教については、人口の約9割が仏教徒(内8割以上は上座部仏教)であり、残り1割のなかにはイギリス植民地支配の名残でキリスト教徒がいたり、バングラデシュと近いこともありイスラム教徒がいたりします。
今回のクーデターを考えるにあたって、人口構成と宗教、民族はキーワードになってくるので覚えておいていただけると分かりやすいかと思います。
では、次にミャンマーの歴史についておさらいしていきましょう。ここからはガッツリ高校世界史の内容になってきますが、初めての方でも理解しやすいようにいくので気楽に読んでいってくださいね。
なお、今回は先日のクーデターに絡めた内容になりますので、論点は近現代に絞っていきます。
2-1.イギリス植民地時代
時は19世紀、ヨーロッパ列強がアジア諸国を次々と植民地化していく帝国主義の時代。ミャンマーがまだビルマと呼ばれていた頃です。年表をまとめておきますね。
- 1765年 イギリス東インド会社がインドの徴税権と行政権を獲得。
- 1824年~1826年 第1次イギリス=ビルマ戦争(ビルマ敗北。領土割譲と賠償金を義務付けられる。)
- 1851年 第2次イギリス=ビルマ戦争(ビルマ敗北。ラグーンなどの一部地域がイギリス領に。)
- 1885年 第3次イギリス=ビルマ戦争(ビルマ敗北。ビルマがイギリス植民地化。インドとビルマをまとめてイギリスが支配するように。)
- 1930年 反イギリス組織「我らビルマ人協会」(タキン党)が結成。
- 1938年 タキン党のアウンサンらによって反英独立闘争が激化。
- 1940年 タキン党の幹部がイギリス当局により逮捕。タキン党は壊滅し、アウンサンは日本に亡命。
ビルマのお隣インドでは18世紀後半、すでにイギリスが東インド会社(インド支配を行う機関)を設置し、周辺地域の支配権拡大を進めていました。
帝国主義の魔の手が伸びてきたのが1824年、イギリスがビルマ支配に動き出します。3度にわたるイギリス=ビルマ戦争によりビルマは敗北し、イギリスの植民地となりました。
ここで大事なのが、ビルマより前にイギリス植民地であったインドとまとめて支配したということになります。これには「分割統治」と呼ばれる方法がとられました。
- 分割統治:被支配者同士を争わせることで統治を容易にする手法。
具体的にどうやったか。
支配者のイギリスは、被支配者であるビルマの内部に対立構造を作り出します。以前から支配していたインド(厳密には現在のバングラデシュ)からイスラム教系のロヒンギャ族をビルマに労働力として連れてきました。
イスラム教系のロヒンギャ族と仏教系のビルマ族。文化や風習、価値観などが違いますからうまくいかないことも多いです。こうしてビルマ内部に不和を生むことでイギリスに反旗を翻す隙を作らせないようにしたわけですね。これが後々の民族問題として尾を引いていきます。
分割統治のイメージ図を載せておきますね。

イギリスによるビルマの分割統治
こうした中で、イギリスによる支配や他民族との接触はビルマ族の民族意識の高まりに繋がっていきました。
1930年にビルマの完全独立を目指して「我らビルマ人協会」(タキン党)が結成されます。ところが、激しい運動によって1940年に幹部の多くはイギリス当局によって逮捕されてしまいました。このとき、タキン党幹部の一人であるアウンサンは日本に亡命します。彼は、今回取り上げたニュースのアウンサンスーチーの父親になります。繋がりが見えてきましたね。
2-2.日本軍政時代
日本に亡命したアウンサンは、イギリスをビルマから排除し、完全独立を達成するための準備を進めます。一方、日本はというと日中戦争(1937年~1945年)真っ只中でしたが、中国を攻略できずにいました。
- 1937年 日中戦争が勃発。
- 1940年 アウンサンが日本へ亡命。
- 1941年 太平洋戦争が勃発。アウンサンがビルマ独立義勇軍(BIA)設立。
- 1942年 日本軍ビルマを占領。
- 1943年 日本がビルマの形式的な独立を認め、ビルマ国が誕生。
- 1945年 アウンサン主導の反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が抗日武装闘争を開始。
こうした状況の中で、ビルマの完全独立を目指すアウンサンの亡命は、日本に新たな一手を計画させます。ビルマに親日政権ができたら日中戦争を優位に進められるし、イギリス植民地の最大拠点であるインドへの侵攻もしやすくなると。
ビルマからイギリスを排除したいアウンサンと中国やイギリスに対抗するための新たな拠点が欲しい日本の利害がイギリスが邪魔だという点で一致したわけですね。
そして、1942年にアウンサンは日本軍のビルマ侵攻に加わり、ビルマからイギリスを排除することに成功します。
問題はここからですね。
日本はビルマを新たな拠点にしたいわけですから、もちろん親日政権を設置します。それがビルマ国です。アウンサンはどうでしょうか。日本の傀儡政権が欲しかったわけじゃないですよね。目指したのは完全独立です。どの国からも指図を受けない独立国家を樹立したかったはずです。ここで意見の相違が出てきます。
これに対して、日本は一応ビルマの独立を認めますが、これは形式的なものに過ぎず、実質的には親日政権が継続しました。
ここからアウンサンの戦いは、敵がイギリスから日本になり、1945年から抗日運動を展開していきます。しかし、この運動は長続きしません。1945年は何の年かわかる方も多いかもしれませんね。
そうです。第二次世界大戦の終了(日本の敗戦)の年ですね。日本はビルマから手を引き、この年以降再びイギリスとの戦いが始まります。
2-3.独立
1945年の日本にはもう戦える力は残っていませんでした。
何度も作戦失敗を繰り返し日本が敗戦も秒読みというなか、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を率いるアウンサンはイギリスと手を組んで日本と戦います。これは2-2.で見た日本と手を組んでイギリスを排除したのと構造は同じですね。イギリスと日本が入れ替わっただけです。結果、日本の排除には成功しますが、せっかくビルマを取り返したイギリスが独立を許すはずもなく、イギリスの支配が復活します。
- 1945年 アウンサン主導の反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)やビルマ国民軍(ビルマ独立義勇軍(BIA)の後身、通称国軍)がイギリスと手を組んでビルマ国から日本を排除。イギリスのビルマ支配が復活。
- 1947年 アウンサンがイギリスとの独立協定に調印。その後、アウンサン暗殺。
- 1948年 「ビルマ連邦」としてイギリスから独立。(初代首相ウー・ヌ)
ビルマの完全独立に向けて戦いを繰り広げたアウンサンですが、イギリスとの独立協定を結んだ後、独立まであと一歩というところで国内の政敵の手により暗殺されてしまいます。積年の夢であったビルマの独立をアウンサンはついに見ることはありませんでしたが、彼の死の1年後にビルマは議会制民主主義の「ビルマ連邦」として独立を実現します。
ここまでがビルマ(ミャンマー)独立までのお話になります。ようやくここまで来たって感じですね(笑)
戦争や民族同士の争い、アウンサンの死など多くの犠牲を払って実現した独立。めでたしめでたし。とはいかなかったんですね。ここからビルマ(ミャンマー)は内政問題に直面していくことになります。
2-4.独立後の内憂
ここからは先日のクーデターとの繋がりがより濃厚になってきます。民族や宗教、政治的思惑が絡んだ複雑な内政問題について見ていきましょう。
まずは、政治的な内政問題から見ていきましょう。
「ビルマ連邦」は議会制民主主義の国として出発します。当然、これは政治的な派閥を生み出します。
- 議会制民主主義:国民の代表機関である議会が、立法という形で国の意思決定を行う政治体制。代議制民主主義、間接民主制とも呼ばれる。
今の日本の政治形態を想像してもらうと分かりやすいかと思いますが、要するに話し合いで国のことを決めるということになります。ぱっと見はみんなの意見が出そうでいい気がしますが、これは悩ましい点もあります。
学級会とかでもありませんでしたか。結論が出ずに延々と話し合いが終わらないこと(笑)
政治でもこれが起こりうるわけですね。とはいえ、永遠に議論を続けても何も決まらないから最終的には伝家の宝刀「多数決」をとります。
多数決ということは自分と同じ考えの人が一人でも多くいてほしいので、グループができるわけですね。これが政治的な派閥(政党など)になってきます。
少し前置きが長くなりましたが、まとめると「独立後の国の主導権を誰が握るか問題」が発生したわけですね。
ビルマの独立には多くのアウンサンだけでなく、その他多くの国内勢力も助力しました。そんななかでようやく勝ち取った独立です。自分たちのことは自分たちで決めたいと各々の勢力が思うことは自然ですね。これは、政府が一枚岩にならない大きな原因になりました。
さらに、拍車をかけたのが、「国内の民族意識の高揚」です。
多民族国家の「ビルマ連邦」ではいろんな意見があり、政治勢力も分化しやすいというのは想像できるかもしれませんが、なかには「ビルマ連邦」に反対の民族もいました。自民族だけの国家を作ろうと考える民族も一定数いたというわけですね。
特にタイ系のシャン族や漢民族系のコーカン族などは独立意識が高く、キリスト教徒が多いカレン族やカチン族は仏教系のビルマ民族が大多数を占める「ビルマ連邦」に対して反発していました。
こうした反乱や反発を悉く鎮めて立場を強めた勢力があります。それがアウンサンが組織したビルマ独立義勇軍(BIA)の後身、ビルマ国民軍(国軍)でした。
当時の国軍のトップはネウィンと呼ばれる人物で、彼が国軍を率いてクーデターを起こします。リーダーシップを発揮できない政府や国家一丸を阻害する議会制民主主義の制度に反発するものでした。
具体的には、政党がビルマ社会主義計画党(BSPP)しか許されず、国家機関の役職はすべて軍人か退役軍人が独占するようになっていきました。バラバラな国家をまとめ上げ、自分がビルマを率いていこうという意思が感じられますね。
こうして「ビルマ連邦」は、1974年にネウィンが指揮する一党独裁の軍事政権国家「ビルマ連邦社会主義共和国」として新たなスタートを切っていきます。
国軍を率いるネウィン主導の「ビルマ連邦社会主義共和国」はどうなったか。
ネウィンはやはり軍人だったのかもしれません。武力で政権をとる戦いのことはわかったかもしれませんが、政治のことはわからなかったようです。うまくいきませんでした。
独自の社会主義システムで国家運営を試みましたが、これを強引に進めた結果、経済混乱や貧困の増加などを招き、当時の社会主義あるあるな道を辿っていきます。
こんな状況を国民が快く受け入れるはずもなく、当然、民主化運動が起こり、いよいよアウンサンの娘であるアウンサンスーチーが登場します。
- 1988年3月13日 首都ラングーンで大規模な民主化デモが発生。国軍の発砲により学生が死亡。全国各地へ民主化デモが波及。
- 1988年7月23日 ネウィン退陣。(退陣後も影響力は持つ)
- 1988年8月8日 一党独裁の打破を目的とした大規模な民主化デモが発生。国軍はこれに無差別発砲を行う。
- 1988年8月26日 アウンサンスーチーが民主化を求める演説を行う。民主化運動の象徴的存在へ。
- 1988年9月18日 ネウィンに代わって国軍の実権を握ったソウマウンが軍事クーデターを起こし、独裁軍事政権が復活。国号「ビルマ連邦」へ。ただし、複数政党制の実現と総選挙の実施を約束。
- 1988年9月27日 アウンサンスーチーが国民民主連盟(NLD)を結成。
- 1989年 アウンサンスーチーが軟禁される。国号「ミャンマー」(首都はラングーンからヤンゴン)へ
- 1990年 総選挙の実施。国民民主連盟(NLD)の圧勝。軍部は政権の移譲を拒否。
1988年の一連の民主化運動を「8888民主化運動」と呼びます。
多発する民主化運動に軍部は容赦なく武力行使を行っていきましたが、それでも国民の勢いは止められず、ネウィンは退陣に追い込まれ、ビルマ社会主義計画党(BSSP)の一党独裁は崩壊しますが、彼はこの後も影響力はもち続けてデモに対して軍部の発砲は止まりませんでした。
そんななか、アウンサンスーチーは民主化を求める演説を行ったことでビルマ民主化の象徴となっていったわけですね。
一方、ネウィンが退いた軍部では、このままでは埒が明かないと軍部のソウマウンがビルマ社会主義計画党(BSSP)の政治的空白を狙って軍事クーデターを起こします。これによって再び軍事政権が復活するのですが、ソウマウンは複数政党制の実現と総選挙の実施を約束します。
こうして来るべき選挙に向けて多くの政党ができ始めました。アウンサンスーチーも国民民主連盟(NLD)を結成し、選挙に備えたわけですね。
このまま民主化を実現していきそうな気配がしますが、軍部にそのつもりはなかったようです。
総選挙が1990年に実施で、アウンサンスーチーはその1年前に軟禁され、外部との接触を禁じられます。このタイミングあまりにもきな臭いですよね(笑)さらに、アウンサンスーチー不在のなか行われた総選挙では、国民民主連盟(NLD)が圧勝したにもかかわらず、軍部は政権移譲を拒否しました。これには政権を手放したくないという態度が露骨に出ていますね(笑)以降、アウンサンスーチーは軟禁と解放を繰り返すことになります。
ちなみに、軟禁が開始された1989年に国号が「ミャンマー」へと変わっています。ここからなじみ深いミャンマーの国名になったわけですね。
2-4-3.国際的関心の高まりとアウンサンスーチー政権の樹立
総選挙後、民主化は実現しないまま軍事政権が続き、アウンサンスーチーは軟禁状態。民主化を求める国民にとっては絶望的な状況でしたが、変化も起き始めます。
この時期に始まる「変化」のキーワードは国際的な関心の高まりです。
アウンサンスーチーのノーベル平和賞受賞はかなり大きなきっかけになりました。他国の目が向けられることで軍部は形式的にでも民主化するつもりがあると示さざるを得なくなったわけですね。
ですが、やはり政権を渡すつもりはなかったようで首都をヤンゴンからネピドーへと移しています。ここはヤンゴンに比べてかなりの荒野地帯になります。娯楽施設や飲食店などはほとんどなく、民主化デモや反乱に備えた要塞にしたのではないかと言われています。
その後、軍事政権はさらに国際批判を浴びます。2007年にヤンゴンでの大規模な民主化デモに武力行使を行い、日本人ジャーナリストの長井健司さんが亡くなるという大変痛ましいことが起きます。他の外国人ジャーナリストも負傷したこともあり、軍部の武力行使には国内外から批判が相次ぎました。
そこから、新憲法の制定や総選挙の実施など表面上は民主化の体裁を整えますが、国際社会の目はもう欺けないところまで来ていました。批判だけではなく、経済制裁も加えられ、ついにアウンサンスーチーが軟禁を解かれます。その後は、年表の通りです。
ようやく国政のトップにたったアウンサンスーチーはどんな政治をしていったのでしょうか。
2015年から事実上、国政のトップに立ったアウンサンスーチー。ようやく実現した民政でしたが、軍部と民族はもちろん、新憲法も複雑に絡み合ったなかで進めていかなくてはなりませんでした。
実は、2015年の総選挙でアウンサンスーチーはミャンマーの大統領候補になっています。ところが、新憲法では配偶者が外国人の場合、大統領になれないという規定があり、外務大臣に留まりました。(アウンサンスーチーの配偶者はイギリスの方です。)そのため、アウンサンスーチーに代わって名目的な大統領が選出されることになります。
アウンサンスーチーはこの状況に対して、大統領はあくまで名目的な存在であり、行政の権限は自ら行使すると表明しました。実際に2015年以降、国家顧問や大統領府大臣など行政の要職を兼任することで、行政権を掌握しながら政治を進めていきます。
ここまででどうでしょうか。「あれ?なんか独裁っぽい...。」と思う方もいるかもしれませんね。実際、そういう評価もされています。
こうした見方が特に強くなったのは、2017年の「ロヒンギャ問題」です。
この事件に対して、国際社会はアウンサンスーチー政権にロヒンギャ族の保護を求めます。しかし、ミャンマー政府は以前からロヒンギャ族をバングラデシュからの不法移民とみなしており、今でも差別や迫害が続いています。これにより実質的に政治のトップであるアウンサンスーチーに批判が集中するようになりました。
アウンサンスーチーがロヒンギャ問題の解決に動き出さなかった理由については、様々な見方があります。以下、よく言われているものを2つ挙げておきますね。
- 人口の70%がビルマ族、90%が仏教徒を占める国内で円滑な政治をするためには、彼らの支持を失う可能性があるロヒンギャ族(イスラム教徒)の救済に乗り出せなかった。
- 憲法上でも政治について一定の影響力をもつことが保障されている軍部が起こした事件を批判することで、円滑な政治ができなくなったり、クーデターを起こされたりすることが懸念された。
今あげた見方は主要なものの一部です。他にも様々なことが言われていますが、何にせよ、国内の政治勢力や民族、宗教、憲法など多くの視点から政治を行う必要があるということには変わりありません。
こうした状況の中で2020年11月に総選挙が行われ、アウンサンスーチー政権の2期目が決まりましたが、その3か月後の2021年2月、軍部のクーデターによりアウンサンスーチーは拘束されました。
3.まとめ 民政派と軍政派の戦いは終わっていない
いかがでしたでしょうか。今回は、ミャンマー近現代史を一気に見てみました。
ここまでの内容を踏まえて今回のクーデターを考えてみると、そこには「民族」「軍部」「憲法」というテーマが浮かび上がってきます。
ミャンマーの民主政治は、イギリス植民地時代から続く民族同士の不和や軍部との関係を憲法に従って調整しながら進めなければなりません。民族問題と軍部については、お分かりいただけたかと思うので、ここでは憲法について補足して、終わりにしたいと思います。
2-4-4.で軍部は憲法上一定の影響力が認められると書きましたが、具体的に見てみましょう。

ミャンマーの憲法改正規定
この他、安全保障分野の閣僚も軍部が務めるなどの規定もあります。
この規定のため、アウンサンスーチーが軍部の排除を目指して憲法改正をしようにも現憲法では上記図のように規定されているため、簡単にはいかないわけです。民族問題もある中で498議席全てをとらないといけないわけですからね。
軍部を排除できないなら、うまく付き合っていく他ありませんが、ここまで読んでみてどうでしたでしょうか。アウンサンスーチーは軍部とうまく付き合えていたでしょうかね。
ミャンマーの近現代は民政派と軍政派の戦いの歴史でもあります。それは、アウンサンスーチー政権の樹立によって終止符が打たれたわけではなく、いまだに続いているということを思い知らされる事件だったと筆者は考えています。
ということで、今回はここまでです。
今回はミャンマーの近現代史に絞り、他国との絡みは割愛しています。そこも考えるとより深い理解に繋がるかと思うので、気になった方はぜひ調べてみてください。
感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。