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【日本史】氏族と氏姓制度を支えた氏神信仰

いらっしゃいませ! 人文社会科学LABOへようこそ! こちらでは、こんなことしてます。よろしければ、ご覧になってみてくださいね。

miyamot.hatenablog.com

今回は、氏族についてです。

このブログの裏テーマとして、「なんか聞いたことあるけど・・・。」に答えるというものがあります。

解説のテーマは基本的にそうした内容をピックアップするようにしていますが、氏族ってまさに「なんか聞いたことあるけど・・・。」にぴったりなのではないかと個人的に思っています。

地方では、氏族とか氏神信仰とか結構がっつり残っていてその地域では、コミュニティーの維持に一役買っていたりするんですよね。

そんな氏族とはどんなものなのか、氏神信仰との関係などを高校日本史で習う氏姓制度とと絡めて解説していこうと思います。

それではいってみましょう!

 

 

1.氏族

実は、氏族って時代によってちょっと意味合いが異なってきます

だから、この言葉は文脈や時代背景に注意しながら使う必要があります。まずは、氏族がもともとどんなものだったのかから押さえていきましょう。

1-1.血縁集団としての氏族

  •  氏族共通の祖先をもつこと、もしくは共通の祖先をもつという意識のもとに結合した集団。

日本史でたくさん出てくる藤原氏を例に挙げてみましょう。

彼らの祖先は、藤原鎌足中臣鎌足です。大化の改新乙巳の変で有名な人ですね。

日本史で習う、藤原不比等藤原広嗣藤原良継藤原時平藤原道長など挙げればきりがないですが、彼らはみんな藤原氏で祖先を辿れば、藤原鎌足中臣鎌足に行きつきます

これが氏族の典型になります。〇〇一族と言い換えることもできますね。

ポイントは、共通祖先をもつことで結合している、もしくは共通祖先をもつという意識で結合しているということです。

つまり、血縁で結ばれているわけですね。

氏族が社会単位になった背景には、農耕があります。

農耕について詳しくはこちらをご覧ください。

miyamot.hatenablog.com

弥生時代BC4世紀~3世紀農耕が本格的に始まり、集団生活の必要性が出てきました。

田畑を耕し、育て、収穫するというのは重労働ですからね。だから、家族(血縁集団)みんなでやるわけですが、人は多い方が効率はいいですし、耕地面積が広がればその分たくさん実り、安定した生活を送れます。

つまり、農耕によって家族(人口)を増やして、その分たくさん収穫し、生活の安定化を図るというサイクルを繰り返しながら人々は生きていくようになりました。

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農耕と生活

このサイクルがどの一族でもうまく回れば、みんなハッピーかもしれませんが、もちろんそううまくいきません。

肥えた土地があれば、やせた土地もありますし、子宝に恵まれる一族もあれば、子供が少ない一族もあります。

このサイクルは一律ではないため、当然に貧富の差が生まれます。

つまり、勢力が強い氏族とそうではない氏族が出てくるようになるわけですね。

2.氏姓制度と氏族

農耕の本格始動によって、各地に有力氏族が出てきました。

弥生時代BC4世紀~3世紀が終わり、古墳時代3世紀中頃~7世紀が始まるころ、日本ではある政治組織が誕生します。

ヤマト政権です。

ヤマト政権の登場によって、これまで血縁集団であった氏族は変容していくことになります。

2-1.氏姓制度に組み込まれた氏族

  • ヤマト政権3世紀中から4世紀頃に大和地方(奈良県)を中心に成立した有力氏族の連合政権

ヤマト政権については、まだまだ謎が多いですが、各地に成立した有力氏族が集まってできた政治組織だという認識でひとまず大丈夫です。

有力氏族が集まってできた連合政権なので、どのように統制を図るかというのは最優先事項になります。強大なチームができても個性強すぎて空中分解したら意味がないですからね。

そこで、5世紀から6世紀にかけて整備されたのが、氏姓制度と呼ばれる支配体制でした。

  • 氏姓制度(うじ)と呼ばれる同族集団ごとに、身分秩序を表す(かばね)を与え,豪族(ここでは有力氏族)を支配・統制する制度。

いまいちピンとこないですよね(笑)大丈夫です。ここってめちゃくちゃ質問多いところなので、少しじっくり解説しますね。

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氏と姓

まず、バラバラだった氏族という画一の形式に編成します。そして、氏の氏族が各を担うというという仕組みですね。

今まで、血縁の一族を指した氏族に、使用人(氏族の身辺の手伝いをする)部曲と田畑を耕作する奴隷身分の奴婢、所有地の田荘を含めてになったというのがポイントです。

は、職務内容によって分かれていますが、どの氏がどの姓を担当するかはほとんど決まっていました

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姓と氏の関係

少し細かいですが、大切なところなので少し補足をします。

  • 天皇家から別れた有力氏族が担う。なかでもトップの氏族を大臣という。
  • 天皇家とは祖先神が異なる有力氏族が担う。なかでもトップの氏族を大連という。
  • の部下。軍事、財政など政治の管理を行う。なかでもトップの氏族を伴造という。
  • 天皇家から別れた地方有力氏族が担う。
  • 天皇家とは祖先神が異なる地方有力氏族が担う。後に国造と呼ばれる。

ヤマト政権ゆかりがどの程度あるかによって微妙に地位(身分関係)の違いが出てくるというのがポイントです。

これは、当然と言えば当然かもしれません。ヤマト政権も信頼のおける氏に姓を任していきたいですからね。

身分関係が紐付いたを与えることで、効率的に氏族を支配し、政治を行っていくというのが氏姓制度の趣旨です。

上位のが与えられた氏族に下位の氏族が従う構図があれば、大王大臣大連がいちいち各氏族に従うように言わなくて済みます

序列順に地方のは伴に従い、伴造に従う。そして、伴造大臣大連に従う。これってつまり大王ヤマト政権に従うってことですからね。

ここまでを踏まえて、氏姓制度の構図を見てみましょう。

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氏姓制度の構図

新出の言葉があるので解説しておきますね。

  • 舎人(とねり):中央(宮廷)の警備や雑用を担う男性。
  • 采女(うねめ):中央(宮廷)での世話係を担う女性。
  • (べ):文書作成や馬の管理、鋳造など、職業により分類された労働集団。もともとは、に起源をもち、職務の細分化により生じた。
  • 屯倉(みやけ):中央の直轄地。
  • 名代子代(なしろ・こしろ):中央の直轄民。屯倉での労働者。両者の区別は不明な点が多い。
  • 田部(たべ):屯倉の耕作民。

少しややこしいのが、伴造国造が兼任の場合があるということですね。

伴造部(労働者)の管理をしていたので、地方の労働者である名代子代の管理も兼任する場合がありました。そのため、上記図の緑の矢印のようになることがあったわけですね。

あと、よく聞かれるのが、屯倉は何のためにあるのかということですね。

地方に支配権を与えて、中央の言うこと聞かせているのにわざわざ地方に中央の直轄地を作る必要があるのかということです。

これは、いくつか理由がありますが、大きな要因の一つは、磐井の乱528年です。

地方の氏族がみんなヤマト政権に従えばいいですが、ときには反乱もありました。その最大のものが、磐井の乱筑紫国の国造である磐井氏の反乱です。これは、ヤマト政権が制圧しますが、なんと制圧には2年の月日がかかりました

こうした経緯があり、中央の直轄地である屯倉を地方に作ることで地方の監視や牽制を行うようになりました。

屯倉地理的には中央の大和地方(奈良県)から離れていますが、実質的には中央の直轄地であるということで、飛び地のようなイメージで理解するとよいかと思います。

3.氏神信仰と氏族

氏姓制度の登場によって、氏族という集団に組み込まれいきました

この支配体制によって、ヤマト政権九州から東北地方中部にまで支配範囲を拡大させます。

では、氏姓制度を支えたものは何だったのでしょうか。もっと本質的な部分を深堀してみましょう。

3-1.氏神信仰

  • 氏神信仰:もとは、一族の祖先神(氏神)に対する信仰。後に同じ地域に住む人々によって祀られる神への信仰となり、現在でもこちらでの意味合いが強い。

農耕により集団生活の必要性が出てきたことで、氏族は社会単位となったというのは前述の通りですが、ここで最も大切なのは、集団の維持(結束)になります。

集団の維持(結束)には、自分はこの集団の一員だという帰属意識が欠かせません。これがないと、氏族のメンバーがあっち行ったりこっち行ったり、集団生活どころではないですからね。

氏姓制度が始まる前から氏神信仰はありましたが、このころの氏族は氏神信仰よりも血縁による結びつきが帰属意識の中核をなしていました。

誰の親(子)であるとか、誰の兄弟姉妹であるとかいった家族関係が集団を維持させる中心的な役割を担っており、その一族は○○という神を祖先神としているという具合です。

ところが、氏姓制度により氏族以外の人々部曲奴婢を加えたが社会単位となったことで、氏族ではなくという集団の維持が必要になってきました。

従来の考え方では、これは悩ましい点があります。

氏族以外の血縁者ではない人々が組み込まれるので、血縁だけで氏の集団を維持するのは難しいですよね。

そこで、血縁よりも氏神信仰帰属意識の中核を担うようになってきました。

つまり、同じ神を信仰することで、自分は○○という神を信仰する集団の一員だという帰属意識を維持させていったわけです。

上記「氏と姓」の図にある通り、には一定の所有地があり、そこに氏族部曲奴婢は住んでいますから、この所有地の人々は○○という神を信仰している集団というようになってきます。

言い換えると、血縁ではなく地縁という集団の維持に重要になってきたということですね。

氏神は、産土神鎮守神と同一として考えられることが多いですが、その起源はここにあります。

  • 産土神:その者が生まれた土地の神。
  • 鎮守神:特定の地域や建造物を守るために祀られる神。

どちらも土着の(土地に紐づいた)神様ですね。

後に氏姓制度は崩壊し、氏神信仰も衰退します。

しかし、産土神鎮守神のように土地に関連した神の信仰による集団の維持は長い間続き、現代にも残っている場所があるというわけですね。

4.まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は、氏族と氏神信仰の関係について解説しました。

昨今のコロナ禍で、地方の伝統的な慣習にも影響が出ているところもあるようです。

私の地元でも、毎年行われていた地域住民が小さな公民館に集まって氏神様に1年の無病息災や五穀豊穣を願う集まり(実際は、それを建前としたお食事会、飲み会)も中止になっていました。

コロナ禍のニュースでは、感染や経済的なトピックがメインを占めていますが、こういう文化的なところにも間違いなく影響は出ていますね。

氏神信仰は人間が作り出した制度によって変化してきた、人為的変化の部分が大きいですが、人類史の見方を変えると感染症の影響も計り知れないものがあります。

これからコロナ禍がどうなっていくのか依然として不透明なままですが、これまで続いてきた伝統的な文化もコロナ禍で変容していくかもしれませんね。

それが良いか悪いかは置いておいて、どんな変化があるのか見守っていきたいところです。

ということで今回は、ここでです。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【文化人類学】農耕文化 穀物農耕なくして人類の発展はなかった

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農耕文化ー。学校の社会科で耳にしたことがある方も多いかもしれませんね。

小中学生はもちろん、高校の世界史や日本史でも必ず出てくる言葉ですが、いつ始まったかだけ覚えさせられるだけで、何が凄くてこんなにしつこく出てくるのかと思った方もいるかもしれませんね。(筆者は学生のとき、そうでした(笑))

今の時代に農耕文化と聞くと単純に「あー、昔の農業ねー。」ぐらいでイメージされることがほとんどかと思いますが、農耕が無ければ、人類社会はここまで発展しなかったか、発展がかなり遅れていたと言えるほど重要なものになってきます。

今回は、農耕がどのように人類社会の発展に絡んできたのかについて解説していこうと思います。

それでは、いってみましょう!

 

 

 

1.狩猟採集の文化

文化人類学における民族の分類方法はいくつかありますが、基本的なものとして「食糧確保の手法による分類」があります。

文化人類学については、以下の記事を参照していただければと思います。ただし、参照しなくても理解できるようになっています。

miyamot.hatenablog.com

 

食糧確保の手法は大きく以下の4つに分類ができます。

①狩猟採集 ②農耕 ③牧畜 ④工業

今回は、農耕の特集なので狩猟採集から農耕になり、どのように人類の発展に影響があったのかを見ていきましょう。

まずは、狩猟採集からです。

1-1.狩猟採集の社会

狩猟採集人類最古の食糧確保手法です。

槍を投げたり、木の実を採ったりのイメージがあるかと思いますが、まさにそのイメージ通りです。

  • 狩猟採集:基本的には、男性が動物性食糧を確保し、女性は植物性食糧や小動物を確保する手法。(hunting and gathering)

ここで少し注意が必要なのが、上記の定義はあくまで原則的なものであるという点です。近年の研究や発掘で、女性が大型の動物性食糧の確保、つまり狩りをする狩猟採集社会もあったとの見方が強まってきています

もう少し具体的に見てみましょう。

1-1-1.狩猟採集民の生活

狩猟採集の典型例とされるタスマニア島(オーストラリア南部)の住民は、カンガルーを狩っていました。もちろん食料にしますが、骨や皮からは槍や衣類を作っており、生活に欠かせない存在だったことが窺えます。現在ではその生活は、イギリスの植民地政策により失われていますが、19世紀初めごろまで続いていました。

アメリカのネヴァダ州のインディアンであるパイユート族ショショニ族は、男性はシカやカモシカなどを狩りますが、最も盛んなものは女性と子供も一緒に行うイナゴ狩りです。彼らの生活圏には大型の動物が少ないため、小さなイナゴを男性はもちろん、女性や子供も一緒に捕って主たるタンパク源としています。さらに女性は、100種類以上の植物を採集することで彼らの食の基盤を成しています。

同じアメリカでも北米の平原インディアンと呼ばれるスー族シャイアン族の生活圏では、バッファローやバイソンといった大型動物が生息しているため、女性の採集もありが、男性による組織的な集団猟が発展し、獣肉が主食となっています。

また、狩猟採集の場は陸地だけとは限りません

北極圏のエスキモー(イヌイットと呼ばれる人々は、海から魚やクジラ、アザラシなどを獲っています。これらは生食が基本であり、植物性食糧の採集が困難な北極圏でもビタミン不足にならずに生活しています。

1-2.狩猟採集社会の性質

以上のように一口に狩猟採集と言っても、狩猟と採集の割合や主食となる食べ物は民族によって様々です。

では、この社会に共通する性質とは何でしょうか。

それは、「生活の不安定さ」になります。

人間が生産するのではなく、食糧確保を完全に自然の方へ依存しているため、気候変動や環境の変化の影響をもろに受けてしまいます。つまり、変化への対応が困難であり、食糧難に陥りやすいわけですね。

実際に上記のエスキモー(イヌイット1960年代に深刻な食糧難によって餓死者が出るまでになっています。

社会において安定した食糧供給ができないということは、発展のしにくさに直結します。少ない食糧をみんなで分け合わないといけませんからね。

だから、必然的に集団も小規模なものになり、変化に対応しにくい集団は食糧難のリスクを伴うため、移動範囲も限定されていきます。

これらの社会では、バンドボルドと呼ばれる集団が形成されることが多いですが、その規模はどれもかなり小規模なものとなっています。

  • バンド:いくつかの家族が集まって形成される集団。一定の土地の限られた範囲内を移動し食糧を確保する。

ここまでの内容をまとめると、狩猟採集の社会は食糧難のリスク移動範囲の限定と隣り合わせであり、その発展のしにくさを内包しているということになります。

2.農耕文化と人類の発展

農耕の起源は、約9000年前西アジアでの麦の栽培が始まりとされています。

私達と同じ現生人類(ホモサピエンス、新人)が出現したのが、20万年ほど前の出来事なので、少なくとも大体20万年近く狩猟採集の時代が続いたということになりますね。

では、狩猟採集から農耕文化に移り変わることで、人類の発展にどんな影響があったのでしょうか。

2-1.農耕とは

まずは、農耕とはどんなものかおさらいしておきましょう。

  • 農耕:田畑を耕し、種子や苗、球根などを植えて作物を育て、食糧を継続的かつ循環的に生産する手法。

冒頭で挙げた4大手法は数字の順に発展していきますが、農耕狩猟採集(自然から獲得するだけの手法)から一歩進み、自ら食糧を生み出そうとするものになってきます。

これの始まりにより、集団で田畑を耕し、作物を育て、収穫する必要性が出てきて村落が出来上がったと習いますね。

農耕が始まって初期のものを原初的農耕と呼びます。これは根栽農耕穀物農耕に大別されます。

次は、この2つについて見てみましょう。

2-2.根栽農耕と穀物農耕

根栽農耕穀物農耕、あまり耳慣れない言葉かもしれませんが、これら(特に穀物農耕)の登場は、人類の発展に大きく影響いていますそれどころか、絶対条件と言っても過言ではありません

世界史で習った方も多いかと思いますが、農耕新石器時代の始まりは、ほとんど一致します。

これは少し注意が必要で、ここでの農耕は村落レベルのものを指します。

つまり、村落という規模での農耕の開始が新石器時代と被るわけですね。そしてもう少し後に、有名な4大文明(メソポタミア文明エジプト文明インダス文明黄河文明が登場します。

何が言いたいかというと、農耕の登場後に徐々にコミュニティーの規模が大きくなっていっているということです。

このメカニズムを根栽農耕穀物農耕から見ていきましょう。

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農耕の起こりと4大文明
2-2-1.根栽農耕
  • 根栽農耕:根や茎の一部を埋めて栽培する農耕。主に熱帯地域で行われる。

根栽農耕は、根茎農耕塊根農耕とも呼ばれ、世界最古の農耕とされています。主な作物は、バナナ、サツマイモ、ジャガイモ、ヤマイモ(ヤムイモ)、サトイモタロイモ)などです。発祥地は、インドや東南アジアとされ、約15000年前頃に始まったとされています。現在ではオセアニア地域でも行われています。

2-2-2.穀物農耕
  • 穀物農耕:種子を蒔いて、穀物を栽培する農耕。主に温帯地域で行われる。

穀物農耕は、種子を蒔いて大麦や小麦、ライムギ(黒麦)などを生産します。発祥地は、パレスチナやシリアなどの西アジア地域約9000年前に始まったとされています。このころになると、農耕と並行して牧畜も行われるようになっていたとされています。

2-2-3.根栽農耕と穀物農耕の違いと人類社会への影響

では、いよいよ結論に参りましょう。根栽農耕穀物農耕の違いは何でしょうか。

これは、単純に作物の違いになります。でもこれが、人類の発展には重大な違いになるんですね。キーワードは保存性です。

根栽農耕で作られるものと穀物農耕で作られるものを比べると、長期保存ができるか否かという違いがあります。

根栽農耕で作られるバナナとかを想像してもらうと分かりやすいかもしれませんが、結構すぐ色が変わって熟していきますよね。

これは、早く腐敗へと進んでいくということでもあります。

一方、穀物農耕で作られる麦や稲などは、根栽農耕の作物と比べて腐敗しにくいです。

これは「安定した食糧生産」に大きな違いを生み、「人口増加」に直接的な影響を与えます。

長期保存ができない根栽農耕では、常に食糧を収穫し続けなくてはなりませんが、10000年以上前の時代の自然相手にこれは不可能に近いです。

一方、長期保存が可能な穀物農耕では、一時的な不作があっても保存したもので生活することができます。

余剰の食糧が無ければ、人口を増やすことはできないため、根栽農耕より穀物農耕の方が人口増加には適しています

次に、食糧の保存性は「人類の移動範囲」にも大きく影響します。

食糧の保存性に乏しい根栽農耕では、食糧が穫れる地域に行動範囲が限定されますが、保存性の高い穀物農耕では、長期的長距離的な移動が可能になります。

根栽農耕で長期的長距離的な移動をした場合、途中で食糧が腐敗してしまえばゲームオーバーですが、穀物農耕では、仮に移動先で食糧が見つからなくても穀物は腐りにくいのでなんとか食つなぐことができますからね。

穀物農耕により、ある程度の余裕が出てくるとみんながみんな農耕に従事する必要が無くなってきます。これは現代の日本と同じですね。みんながみんな稲作をしないと米が食べられないなんてことはないですよね。

つまり、農耕に従事する者とそうでない者の分業化が進むというわけです。

穀物農耕の特徴を考えると、収穫時期が限定されています。そこから、収穫時期にしっかりと作物が穫れるように祈祷する儀礼や祭祀、それらを司る祭司者の役割が発達します。これにより、自分たちの生活に関わる収穫の善し悪しを左右する祭司者の立場が強くなり階級社会(都市や共同体)が形成されていくというわけですね。

2-2-4.西アジアから始まる4大文明

ここまでくると先程の図にある4大文明西アジアからスタートしたかがお分かりいただけるのではないでしょうか。

インドや東南アジアでは、根栽農耕がメインでしたが、西アジアでは穀物農耕がメインでした。これは、西アジア肥沃な三日月地帯(『エジプトの古代記録』ーヘンリー・ブレステッドより)と呼ばれる肥えた土壌があったことが大きな要因です。

人口増加生活圏の拡大社会(都市、共同体)形成といった人類の発展に欠かせない絶対条件を満たす穀物農耕西アジアから始まり、東へと伝播していったことで文明も西アジアから東へと順に起こっていったということになります。

穀物農耕がすべての文明の出発点と言っても過言じゃないわけですね。

3.まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は、農耕文化について文化人類学的に解説してみました。

小中高と何度も出てくる内容でサラッと通りがちな内容ですが、人類史でもかなり重要な部類に入ってきます。

今回解説した狩猟採集農耕、紹介していない牧畜工業、これらは文化人類学では生活技術経済技術の分野になります。

一般的に文化というとある集団の生活様式や精神性の根本にあるもの、生活技術や経済技術より深い部分にあるものと考えられがちですが、今回の解説の内容を踏まえると生活技術や経済技術が文化の根本という見方もできますね。実際にそういう見方をすることもあり、これはこれで面白い見方ですね。

農耕については今でも人文社会科学において研究が進んでおり、近年新しい発見も出てきています。そのため、今回解説した内容とズレが生じることもあるので、ここでの解説は基本としてぜひ最新の研究を追ってみてください。筆者も追います(笑)

ということで今回はここまでです。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【法学】「結婚の自由を全ての人に」裁判の判決要点解説 なぜ同性婚裁判は少ないのか

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前回の更新から久しぶりの更新になってしまいました。皆さんお久しぶりです。

先週のニュースになりますが、私的ビックニュースが舞い込んできました。

ご存知の方も多いかもしれませんが、同性婚裁判について日本史上初の司法判断がなされました。

これまでに、同性婚の可否ついて裁判所が合憲か違憲かの判断はしてきませんでしたが、いよいよ同性婚を認めない現在の制度は憲法に反しているとの判断をしました。

法学専攻の私にとってはとてもセンセーショナルなニュースで解説せずにはいられず筆を執った次第です。実際はタイピングした次第ですが...。

ということで、今回も初学者向け、学生向けに今回の判例とプラスアルファで大学の法学の内容を少し解説していこうと思います。

それではいってみましょう!

 

 

1.訴訟の概要と判例解説

まずはどんな裁判なのかなぜ裁判になったのかを見て、そのあとに判例の解説をしていきます。

なお、この一連の裁判は、東京、大阪、名古屋、札幌、福岡の5か所の地方裁判所で行われましたが、今回取り上げるのは札幌地方裁判所での判決になります。

1-1.訴訟の概要

「結婚の自由を全ての人に」と名付けられた今回の裁判は、2019年2月4日に東京、大阪、名古屋、札幌の4か所で13組の同性カップルが国を訴えたことで始まりました。

その後、2019年9月5日には福岡でも訴えが提起され、5か所で裁判が進んでいたという状況です。

同性婚をしたいが、婚姻届けが受理されないことで、精神的な損害を被ったため、国に損害賠償請求をしています。

ただ、彼らの真の願いは、結婚制度を平等にし、同性婚を認めてほしいというものであると原告側の弁護団の話で分かっています。

1-2.裁判の争点

この裁判でポイントとなる争点は、2つです。

  • 同性婚ができない状態が違憲
  • 同性婚ができない状態を国が維持しているのは違法か

①については、同性婚を認める規定がない民法や戸籍法が憲法13条24条に違反するかが争われました。

②については、ⅰ)①のような状態を放置している国が憲法14条に違反するか、ⅱ)その状態を改善してこなかった国に賠償請求できるかが争われました。

以下、争点①と争点②-ⅰ)、争点②-ⅱ)とします。

判例解説の前に今回取り上げる条文を見ておきましょう。

日本国憲法第13条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。*1

日本国憲法第24条1項

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

日本国憲法第24条2項

配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。*2

日本国憲法第14条1項

すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。*3

国家賠償法第1条1項

国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うにつて、故意又過失によつて違法に他人に侵害を加えたときは、国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずる。 *4

 1-3.判例の解説

では、札幌地裁はどう判断したのか見ていきましょう。

判決文のリンクを載せておきますね。解説と照らし合わせてみるとより理解が深まると思います。

【判決要旨全文】「同性婚できないのは憲法違反」札幌地裁が日本初の判断 | ハフポスト (huffingtonpost.jp)

先に結論だけ示しておきます。

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同性婚裁判 札幌地裁判決の結果

一見、矛盾する部分がありそうにも見えますが、どういう理屈でこの結論に至ったのでしょうか。

ここからは、上記条文を参考に読んでいただければと思います。

1-3-1.争点①について

まず争点①についてですが、判決のロジックはこうです。

憲法24条1項「両性」は、異性婚を定めたもので、同性婚を定めたものではないとします。そして、同条2項具体的な婚姻の制度は、国会の立法裁量に委ねられると解釈します。

憲法13条については、包括的人権規定であり、この条文を根拠に特定の制度今回は同性婚を認める制度を求めることはできないとします。

こう考えると、憲法の考えが読み込まれた民法や戸籍法といった婚姻に関する諸法そのものは、24条13条に反していないと言えますね。

まとめると、以下のようになります。

24条「両性」という以上、やはり異性婚を規定していて、(異性婚、同性婚を含めた)婚姻に関する制度の整備は立法権を司る国会に任されている13条からは条文の性質上、同性婚を認めることはできない

憲法のこうした考えのもとに、民法や戸籍法などの法律は作られているから、それらの法律に同性婚を認める規定がないからといって24条13条に反しているとは言えない。

1-3-2.争点②-ⅰ)について

次に争点②-ⅰ)についての判決のロジックはこうです。

まず、婚姻について法的な定義をします。

  • 婚姻:当事者とその家族の身分形成をし、その身分に応じた権利義務を伴う法的地位が付与される法律行為

例えば、夫婦の間に子が生まれると、その親である夫婦には親権(子供を養育したり、子の財産を管理したりする)という権利義務が生じます。

他にも、遺産相続で仮に夫が先に死亡した場合、その妻には夫の遺産の相続権が発生します。

こんな風に、婚姻親や夫、妻という身分を形成し、その身分に応じた法的な権利義務を生じさせる行為だと定義するわけですね。

そうすると、同性婚については婚姻を認める制度がないから、これらの権利義務(法的利益)は享受できませんね。ここから、異性婚と同性婚の間に区別があるとします。

そして、この区別は性的指向(ここでは異性を性対象とするか同性を性対象とするか)のみによるものだとします。

この性的指向について、判決はこのように考えます。

  • 性的指向:性別や人種と同様に自らの意思で決められない個人の性質

上記の婚姻という制度が明治民法以来継続し、今でも多くのカップルが婚姻をすることから婚姻によって生じる法律効果(上記の婚姻によって生じる権利義務)を享受することは、重要とします。

そのうえで、異性婚と同性婚の違いが性的指向のみであり、性的指向本人の意思で選択できないということから、同性婚も異性婚も等しく婚姻の法律効果を享受されるべきであるとしました。

さらに、判決は法的な婚姻の目的について次のように考えます。

  • 婚姻の目的:子の有無にかかわらず、夫婦が共同生活をする関係に法的な保護を与える。

これを踏まえて、憲法24条民法などの法律は同性愛者の共同生活への法的保護を否定してはいないと解釈しました。

以上内容から、争点②-ⅰ)では以下のように判断されました。

憲法民法などの法律が否定していないため、異性婚と同様に同性婚も婚姻の法律効果を享受されるべきであるが、同性婚には一切の婚姻に関する法的保護が設けられていない

これは、婚姻制度を設ける権限をもつ国会(立法府)に憲法14条違反がある

1-3-3.争点②-ⅱ)について

これについて判決は次のように考えています。

同性婚制度がないことの合憲性について、今まで司法判断がなかったことや世論が同性婚に肯定的になったのは比較的最近であること、国会で議論が始まったのも平成27年以降であることを根拠に挙げて、国会が14条違反をすぐに認識できたとは言いにくいとして損害賠償請求を認めないと結論付けました。

2.判決にみる条文解釈と憲法裁判

ここでは、判決への理解をより深めるための知識を解説していきます。

2-1.法の段階的構造

こんな図を見たことがありませんか。

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法の段階的構造

これは、法の段階的構造と呼ばれるものです。より一般的には、法のヒエラルキーと呼ばれたりしますね。

これは、下位の法が上位の法に反してはならないとする法同士の関係を表しています。

例えば、図の「規則」は上位の政令「条例」に反する内容であってはなりません。これを繰り返すと結局、憲法より下位の法はすべて憲法に反する内容であってはならないということになりますね。

だから、憲法は日本の最高法規と呼ばれるわけですね。

さらに、見方を変えると、下位の法は上位の法の考え方に従ったものでなければならないということができます。

これは、日本の法を考えるうえでかなり重要な性質になってきます。

憲法は確かに日本の最高法規で他の法とは別格ですが、じゃあこれだけで国の運営がすべてうまくいくかといわれたら無理があります。

これは、憲法の内容が抽象的だからです。

例えば、上記の24条1項を見てみてください。婚姻って両性の合意だけで成立するとありますが、婚姻届けのことは書いてないし、事実婚はどうなるのかも書いてないですね。

つまり、憲法ってそれだけだと分かりにくく、疑問が出てくる作りになっているんです。この理由もちゃんとありますが、今回は割愛します。

だから、憲法の考え方をより具体的にしていくために法律や政令、条例、規則などがあるんですね。

この考え方は、1-3-1.での判決のロジックに使われています。

2-2.憲法13条後段 包括的人権規定

憲法13条憲法の条文のなかでも、独特な条文の1つです。

2つの文から構成されていますが、1つ目の文を前段、2つ目の文を後段と呼びます。

前段については、個人主義を規定したもので議論が多いところではありません。

  • 個人主義:個人が人間社会の価値の根源であるとする憲法の基本原理。

ところが、後段については難解な部分が多いです。

後段の内容は、幸福追求権と呼ばれています。議論になるのは、この幸福追求権がどんな法的性質を持っているのかというところですね。

現在、通説となっているのは、幸福追求権新しい人権の根拠となる規定としての性質を持つということです。

  • 新しい人権憲法上明文化されてはいないが、時代や社会の変化に伴って憲法上保障されるべき人権として新たに出てきたもの。

プライバシーの権利自己決定権肖像権環境権といった言葉を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。新しい人権の具体例ですね。

これらの人権は、日本が工業化し公害問題が発生したことや情報社会で個人情報の保護が重要となってきたことで出てきた人権になります。

つまり、13条後段はこういった新しい人権を主張する根拠となる性質を持っているということです。

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幸福追求権のイメージ図

ただし、これは少し注意が必要です。

幸福追求権を根拠に個別化した新しい人権なら、まだ裁判で主張(○○の人権侵害だとか、○○の人権を認めてほしいとか)することができますが、幸福追求権それ自体は、まだ見ぬいろんな人権が包括された人権であるため、具体的に主張することが難しいわけですね。

だから、13条後段幸福追求権包括的人権規定と呼ばれ、今回の判決でもこれに基づいた特定の制度は認められないとしてしていました。

2-3.付随的違憲審査制

判決では、同性婚について今まで司法判断がなかったと述べられていました。最後に、これはどういうことか解説しておきます。

国会や地方公共団体の作る法律や制度がすべて完璧だといいのですが、ルールや秩序を作るのもやはり人間なのでときには、憲法に反した法律や制度が存在してしまうこともあります。

そんなときは、その法律や制度が憲法に反していないかを判断する必要がありますよね。これを違憲審査制と呼びます。

これは、抽象的違憲審査制付随的違憲審査制に大別されますが、日本では付随的違憲審査制を採用しているとされます。今回は、付随的違憲審査制のみ解説します。

  • 付随的違憲審査制:通常の裁判所が具体的な事件の裁判に際して、その解決に必要な限りで違憲審査を行う。

意味わかんないですよね(笑)

これは、いきなり「○○は、憲法違反だ。」とか「○○は憲法△△条に違反するのでは?」と裁判所に訴えることができないということです。

では、どうやって違憲審査を行うのか。

まず、何かしらの具体的な事件の裁判が起こらないといけませんこの事件を解決する過程で(事件解決に、裁判に付随して)必要な範囲で違憲審査を裁判所が行うことになります。

これでもいまいちピンとこないですよね(笑)今回の同性婚裁判で当てはめていきましょう。

今回の事例に当てはめると、いきなり「同性婚を認める制度がないのは、憲法違反だ。」と裁判をすることはできません。

だから、今回の事例は同性婚を希望する人々が、役所に婚姻届けを提出して受理されなかったということで裁判を起こし(具体的事件、裁判が起こり)、その解決の過程で(事件解決、裁判に付随して同性婚を認める制度がないのは違憲かが判断されました。

ややこしいですよね(笑)

こうした違憲審査制を採用しているため、まずは具体的な事件、裁判がないと違憲審査はできないわけです。だから、今まで同性婚について司法判断がなかったし、少なかったわけですね。

3.まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は同性婚裁判について解説していきました。

法学を学ぶと論理的思考を駆使しながら、世の中の動きを見ることができるようになります。

今回は、同性婚について初の司法判断がなされ、間違いなく制度面で同性婚の可否に関する議論が活発になっていくでしょう。

もちろん、制度面がしっかりと整備されることも重要ですが、私達一人ひとりが精神面でも同性愛者の方々を受け入れることができるようにしていかなければいけないと思います。

制度だけでなく、社会的にももっと寛容な雰囲気になると、より多くの人々がのびのび生活できそうですよね。

いくら法律や制度があってもみんながそれを無視してしまえば、ないも同然ですから。

ということで、今回はここまでです。

ではまた次回お会いしましょう。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【文化人類学】雛祭り その起源にみる身代わり信仰

いらっしゃいませ! 人文社会科学LABOへようこそ! こちらでは、こんなことしてます。よろしければ、ご覧になってみてくださいね。

miyamot.hatenablog.com

前回の記事からかなり間が空いてしまいました。皆さんお久しぶりです。

なかなか書けずに月を跨いでしまい、もう3月。今日は雛祭りですね。はてなブログでも今週のお題は雛祭りだそうです。雛人形を飾ったり、ちらし寿司の用意をしたりする方も多いのではないでしょうか。

ということで今回は、雛祭りの起源やそこに読み込まれた呪術的要素について解説していこうと思います。

お祝いの日になんですが、少しネガティブな部分もありますので、ご注意いただければと思います。

それではいってみましょう!

 

 

1.雛祭りの起源

まずは、雛祭りの起源について見ていきましょう。

ここでは、様々ある起源についての諸説で有名なものを解説していこうと思います。

1-1.節句

雛祭りの日である3月3日は、上巳の節句とも呼ばれます。これは、中国由来の風習で、雛祭りの起源に深く関わっているので、まずはこの節句を理解していきましょう。

  • 節句:中国の陰陽五行説に由来する季節の節目の日。各節句に年中行事が行われる。

この考え方は、飛鳥時代もしくは奈良時代に日本に伝来したとされています。かつては細かく各節目に年中行事が行われていましたが、現在では5つが残っており、五節句と呼ばれています。

少しまとめておきますね。

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五節句の日付と節句料理

これらの興味深いところは、すべての節句が奇数月と奇数日になっているところですね。

なぜこんなことになっているのか。そこには陰陽五行説、とりわけ陰陽説の考え方が出てきます。

  • 陰陽説:この世の森羅万象すべてを、「陰」と「陽」にカテゴライズし、そのバランスでこの世の存在や現象を説明しようとする中国由来の二元論的な考え方。

全てを「陰」「陽」に分けるわけですから、もちろん数字もその対象となります。

陰陽説では、偶数が「陰」奇数が「陽」とカテゴライズされます。整数は偶数(陰)と奇数(陽)が無限に繰り返されることで調和しているというような考え方です。(整数の範囲外では、偶奇の判別がつかない数があるかもしれませんので、とりあえずイメージするものとして考えていただければと思います。)

偶数と奇数の違いは、2で割り切れるか否かです。奇数は割り切れませんね。このことから別(分)れない、割れない、堅固なというイメージが付加されて、奇数は縁起の良い数となりました。偶数はその逆で縁起が悪い数となます。

では、奇数が並んでいるこの節句は、かなり縁起の良い節目になりそうですが、そうではありません陰陽説的にはこれは陰陽のバランスが取れた状態ではないですね。

陰陽説の有名な言葉にこんなものがあります。

「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず。」

つまり、陰と陽どちらもいき過ぎれば、その反対のものに転化するということですね。この考え方に従うと、上記の五節句は陰に転化して縁起の悪いものになってしまいます。

だから、上記の図のようにその時期ゆかりのものを体に取り込んで厄災から身を守ろうとするわけです。

節句と言えば、今では縁起のいい日となっていますが、もともとは縁起の悪い日だったわけですね。何とも興味深いです(笑)

ここから五節句は、不吉なものや災いから身を守るための行事が発展していきます。この節句が伝わったのが飛鳥時代もしくは奈良時代になります。

では、日本ではどのような行事になっていったのか見ていきましょう。

1-2.禊祓(みそぎはらえ)と流し雛

陰陽五行説が日本に伝わったのが6世紀初めになります。この影響を受けて、日本では禊祓という習慣が根を下ろします。

  • 禊祓穢れを除去し、心身を清めること。ただし、ここでの罪や穢れは死や病気、性交といったものや現代の犯罪なども含む包括的かつ宗教的な概念。特に穢れ(死や病)は、他者に伝染すると考えられ心身を清めることが必須とされた。

この禊祓は後に天皇が穢れから心身を清めることで国家の穢れを除去し、厄災を退け国家安寧を願う大祓という行事に発展します。

さらに、皇族や貴族社会が繁栄した平安時代になり、節句の習慣も加わり禊祓もバリエーションに富んでいきます。そのなかで流し雛と呼ばれる行事が登場しました。

  • 流し雛上巳の節句人形に息を吹きかけ、自分の厄災や穢れを移し、川などに流すことで身を清める行事。陰陽師の祈祷とともに行われた。

これが次に解説するひいな遊びとともに雛祭りの原型とされる流し雛になります。

この流し雛が発展した背景には、陰陽師の隆盛当時の乳幼児の死亡率の高さがあります。

実は平安時代は、陰陽師が最盛の時代でもありました。そのため、こうした呪術的要素を多分に含んだ行事が多く、それらは陰陽師が取り仕切ることになっていたわけですね。

さらに、医療技術が発達していなかった当時を考えると想像に易いですが、乳幼児の死亡率は現代と比べてかなり高い状況でした。親は自らの子を厄災から守り、死や病といった穢れを広めないようにするため、代わりに厄災や穢れを引き受ける人形を子の枕元に置いていました。そして、流し雛その人形を流して子の厄除け(心身を清める)をするようになりました。

1-3.ひいな遊び

では、雛祭りの起源として流し雛と共に有名なひいな遊びについて見ていきましょう。

  • ひいな遊び平安時代の皇族や貴族の少女たちに流行した人形遊び

ひいなとは、小さな人形という意味になります。現代で言うところのおままごとですね。紙でできた人形にお供え物をする遊びになります。細かい内容は異なりますが、1000年前の少女たちも今の子と変わらずおままごとをして遊んでいたというのはなかなかロマンがありますね。

流し雛という呪術的な年中行事と子供の遊びであるひいな遊びが融合し、江戸時代少女の健やかな成長を願って雛人形を飾る日としての雛祭りとなっていきました。

2.雛祭りと身代わり信仰

1.では雛祭りの起源について見てきました。では、ここからがっつり文化人類学のお話に入っていきましょう。少し怖い部分もあるかもしれませんのでお気を付けください。

2-1.身代わり信仰と形代

身代わり信仰という言葉はなかなか耳慣れないかもしれませんが、この歴史はかなり古く、縄文時代にまで遡るとされます。

  • 身代わり信仰:人間の代わりに厄災を引き受けるものについての信仰。

典型例が土偶ですね。誰しも一度は目にしたことがあるあの人型の土人形ですが、実は出土した土偶の多くはどこかしらが欠損しています。それだけでなく、明らかに故意に破壊された状態で出土したものも多いんですね。

土偶が何のために作られたかについては諸説ありますが、有名な説として人間の身代わりとして使われたのではないかというものがあります。

例えば、膝が悪ければ土偶の膝を壊し回復を願うといった具合ですね。

これを裏付けるものとして形代の概念があります。

  • 形代:神霊や人間の霊魂が依り憑く対象物。

神木や注連縄が飾られる場所や社などですね。

これは、縄文時代に発生したアニミズム(animism)から出てきました。

  • アニミズム(animism):自然現象や自然物に霊的な存在が宿るとする考え方。

雨や雷などの天候はそこに宿る精霊や神の仕業だと考えるのが典型例ですね。

こうした身代わり信仰形代は、時代を経て前述の流し雛に受け継がれました。

つまり、流し雛で使われた人形というのは、形代としての役割を果たしていたわけですね。何というかちょっと怖い感じがするのは筆者だけでしょうか(笑)

では、なぜ水に流していたのでしょうか。

土偶では、厄除けしたい箇所の破壊をしていましたが、流し雛では人形を川に流していましたね。これは、一体どういうことなのでしょうか。

これはいろんな角度から説明ができますが、一つ大きな要因として、記紀(『古事記日本書紀』)の存在は無視できません。

記紀には、日本を生み出したイザナギ穢れを水で流し心身を清めたという神話があります。ここから厄払いや穢れを落とすのには、水が不可欠になってきたというわけですね。

実際、流し雛だけでなく、雛祭りの起源に関係する禊祓大祓にも水が使われます。

3.まとめ 雛祭りの意味の変遷

いかがでしたでしょうか。

今回は、雛祭りの起源と祭祀的な側面について解説してみました。

現代では雛祭りの祭祀的な側面はほとんど失われて一種のお祝いイベント的なポジションとなっていますが、もともとは結構ネガティブな起源があったんですよね。

そう考えるとかなり雛祭りもかなり変わってきたと思いますが、文化は変化するのが常なので当たり前といえば、当たり前なのかもしれません。

少子化が進む日本では、それがかなりネガティブにとらえられていますが、子供が少ないなかだからこそ、雛祭りは新たな変容を遂げるかもしれませんね。そう考えると、少しワクワクしてしまう筆者でした(笑)

ということで、今回はここまでです。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【文化人類学】チョコを渡すと死刑!?アンチバレンタインデーのロジック

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記事を執筆しようと画面を開いたら、今週のお題「チョコレート」なんて言葉を見つけてようやくバレンタインデーに気づいたどんくさい筆者です(笑)

本当は別の記事を書こうと思っていたのですが、タイムリーな解説記事も書いてみようということで、今回はバレンタインデーについて解説していこうと思います。

ただ、バレンタインデーってかなり日本に浸透してて、その由来や歴史などを知ってる方も多いと思うので、今回は切り口を変えて文化人類学な視点からバレンタインデーを解説していこうと思います。

それでは、いってみましょう!

 

 

 

1.バレンタインデーとは

冒頭にバレンタインデーの由来とか歴史は知ってる人も多いから、視点を変えて解説するとか書きましたが、後々の解説のために一応簡単に説明させてくださいm(__)m

ある程度知っている方は読み飛ばしてもらっても大丈夫です。

1-1.バレンタインデーの歴史

  • バレンタインデーキリスト教圏由来の祝いの日。毎年2月14日に恋人同士が愛を祝う日。恋人同士でカードを交換したり、贈り物をしたりすることが多い。

辞書や辞典などでは、このように定義されることが多いですが、現代の日本ではこの定義は不正確になっていますね。恋人同士でなくともチョコレートを交換したり、愛というより、感謝を伝える意味で贈り物をしたりすることもありますからね。

この由来についてよく知られているのは、バレンタイン司祭殉教エピソードですね。

3世紀頃ローマ帝国クラウディウス2世は兵士の士気が下がるという理由で、兵士の婚姻を禁じたとされています。これを哀れんだバレンタイン司祭は、秘密裏に兵士とその恋人の結婚式を行いますが、クラウディウス2世にそのことがバレてしまい、2度と行わないようにと命令されました。

しかし、この命令に屈せずバレンタイン司祭は結婚式を行い続け、最終的に処刑されます。これが2月14日の出来事で、その死を悼み、恋人の日として祭日化していったというものです。

今回は割愛しますが、他にも由来についてはいろんな説があります。

2.アンチバレンタインデーな国

もともとは恋人同士の愛の日。そんな「LOVE&PEACE」なバレンタインデーですが、世界のなかには、これを嫌う国々もあります。

それはどんな国々なのか。なぜ嫌われるのか文化人類学的に見ていきましょう。

2-1.イスラム諸国の場合

まずは、イスラム諸国です。なかでもサウジアラビアやイランなどがバレンタインデーに批判的な国の代表格です。ここでは、先にこの2カ国でバレンタインデーがどのように扱われてきたのかを見て、文化という側面からまとめて解説していきます。

2-1-1.サウジアラビアの場合
  • 2004年 国内最高位の宗教指導者アブドルアジズ・アール・アッシャイフがバレンタインデー禁止のファトワイスラム法学に基づく見解)を出す。
  • 2009年 勧善懲悪委員会のサッターム・ビン・アブドゥルアズィーズがバレンタインデーを祝うことは最高刑として死刑がありうると発言。バレンタインデーが全面禁止になり、取り締まりが過激化。
  • 2018年 イスラームにおいてバレンタインデーは合法であるとの見解が示される

どうでしょうか。なかなか過激ですね(笑)

現在では、サウジアラビアでもバレンタインデーが認められていますが、一昔前までは死刑になる可能性があるほどの違法行為でした。

上記年表の言葉について少し補足をしておきますね。

サウジアラビアでバレンタインデーが違法行為だったとき、2月14日が近づくと勧善懲悪委員会が動き出しました。店の商品や装飾にバレンタインデー関連のものがないか見回りをし、発見したら回収したり、撤去したりするわけですね。

違法行為と化したバレンタインデーですが、勧善懲悪委員会見回りを強化する中でも人間の愛は止められなかったようです。国民は隠れてプレゼントを交換したり、渡したりしていました。もちろん、見つかれば逮捕されます。

最高刑は死刑ですからね。まさに、命がけの告白といったところでしょうか。

ちなみに、実際に死刑になった人はいなかったようですが、なんともソワソワしますね。

2-1-2.イランの場合
  • 2011年 バレンタインデーの贈り物の生産や宣伝の禁止。
  • 2013年 イラン中央税関がバレンタインデーに関する全製品の輸入を禁止に。

これまたなかなか過激ですね(笑)

イランでもサウジアラビアと同様に、現在では、若者を中心に浸透しています。年表の時期は、これらに違反した者には法的な罰則が付きました。死刑の可能性があったサウジアラビアですら、国民は隠れてバレンタインデーを祝っていましたから、イランでももちろん隠れて祝う国民がいました。

今回は具体例としてサウジアラビアとイランを挙げましたが、他のイスラム諸国でもバレンタインデーを禁止や抑圧する動きがありました。この現象は一体どういう理屈から生まれてきたのでしょうか。

2-1-3.イスラム諸国のアンチバレンタインデーのロジック

上記の2カ国の共通点は何でしょうか。

イスラム教国ということですね。ただし、この2カ国は単なるイスラム教国ではありません。シャリーアの影響が強いイスラム教国になります。順を追って解説しますね。

まずは、このシャリーアから理解する必要があります。

これはいわゆる法律的なものなのですが、単なる法律ではありません。このシャリーアには信仰や儀礼はもちろん、民法や刑法、行政法国際法などがまとまっています。国家運営に関するエッセンスがこれ1つにまとまっているわけですね。

上記2カ国は、シャリーア国政の主軸としており、その影響が強いというわけですね。実際、こういった国では、イスラムは人類普遍の教えであり、それに基づく社会で生きることこそが人類のあるべき姿だと考えられています一つの世界観というより、唯一絶対の世界観なわけですね。(他のイスラム諸国では、シャリーアを廃止していたり、シャリーアに加えて他の法律を主軸としている国もあります。)

シャリーアコーランハディースが元になっているので、当然にイスラム教徒としての敬虔さが求められてきます

ここまでを抑えてイスラム教の特徴をおさらいしておきましょう。

イスラム神はアッラーのみです。それ以外に神はおらず、唯一絶対の神様になります。そして、それは偶像として崇拝することを禁じられています。例えば、アッラーの像を作ったり、絵を描いたりすることはご法度です。キリスト教キリスト像や仏教の木彫りの仏などはイスラム教ではありえないわけですね。

では、どういう理屈で上記のようなイスラム諸国がバレンタインデーを禁止、抑圧するのかまとめましょう。

他の宗教行事を受け入れることは、イスラム教の絶対性を揺るがせる。」

これに尽きます。

偶像崇拝を認めているキリスト教のバレンタインデーを受け入れることは、イスラム教で禁じられている偶像崇拝を認めたことになりかねませんし、他の宗教を受け入れることでイスラム教由来の国家運営や文化、世界観が揺らいでしまう可能性があります。

そうしたことから、厳格なイスラム諸国では、禁止されることが多かったわけですね。

これはあくまで「文化」という側面に注目した場合に言えることです。もちろん、他にも要因は考えられます。例えば、イランは上記年表の時期に、核開発をめぐってアメリカと関係が悪化しており、政治的な観点からバレンタインデー禁止政策をとったとも考えられています。

2-2.インドの場合

他にも禁止とまではいかずとも、バレンタインデーに圧力がかけられた地域もあります。有名なのが、ヒンドゥー教国のインドです。

ヒンドゥー教の定義については様々ありますが、その特徴として多神教という点があげられます。前述のイスラム教と比較すると、他の宗教にも寛容そうな気がしますが、実際に寛容であることが多いです。

ではなぜ、圧力がかけられたのか、かけたのは誰なのか。

これは、ヒンドゥー至上主義原理主義とよばれる考え方の集団によって起きた現象になります。

  • 至上主義:あるものについて、それが最上のものであるとする考え方。
  • 原理主義宗教においては、教典や聖典、教義などに忠実に従おうとする考え方。

つまり、ヒンドゥー教こそが最上のものであり、その教えに忠実に従うべきだとする考え方の集団が、キリスト教の行事であるバレンタインデーに圧力をかけたということです。

なぜ彼らがこのように考えるかというのは、先ほどのイスラム諸国と似ています。

他の宗教を受け入れることで、ヒンドゥー教の文化が揺らいでしまう。」

具体的には、「Sri Ram Sena」というグループが、バレンタインデー禁止のポスターを張ったり、プレゼントの交換に使う商品を燃やしたりしました。

繰り返しになりますが、これは一部の集団によるものです。インドの方が全員そういうわけではなく、むしろかなり多くの人々はバレンタインデーを1つのイベントとして受け入れて祝っています。

では、イスラム諸国とインド、場所も宗教も違えど似たようなことが起こるのは何でなのでしょうね。

2-3.インドとイスラム諸国の共通点を考える

日本人からするとなかなか理解しにくい感覚かもしれませんが、大昔から宗教は人間の世界観の形成に大きな役割を果たしてきました

これは、かなり重要なことです。見たり聞いたり、考えたり思ったりという人間が当たり前にすることの全てを「宗教を通して理解するわけですからね。こういった点は、今でも宗教の一つの役割として残っています。

でも、これが揺らいだらどうでしょう。

特に、この宗教こそがすべてだと考えている人々にとっては、自分という存在に関わってくるため、大変なことです。ちょっとしたカルチャーショックどころではありません。

だから、自分が信じている宗教の世界観が揺らいでしまうことがあってはいけないと考えられることがあるわけですね。

今回挙げたインドの一部とイスラム諸国は、この考え方をしているわけですね。

つまり、宗教そのものが不寛容なのではなく、それを解釈する人間側がバレンタインデーへの圧力を引き起こしたということになります。

3.まとめ 日本の場合

いかがでしたでしょうか。今回はアンチバレンタインデーの現象を文化人類学的なトピックである宗教と絡めて解説してみました。

日本の場合だと、バレンタインデーはキリスト教の行事ということは認識されていますが、宗教儀礼ということはほとんど認識されていませんね。これはなかなか興味深いところです。

だから、元来の宗教儀礼としての形式なんてものは気にされず、日本のバレンタインデーは独自の形態になってきました。

チョコレートを渡すのもその一例ですね。

もともとは贈り物や交換などは行いますが、何もチョコレートとは決まっていませんでしたね。それが、お菓子屋さんの販売戦略としてチョコレートが贈られるようになったというのも有名な話です。

日本では女性からチョコレートを送るとされていますが、これも他の地域では異なります。最近では、これが男尊女卑ではないかと言われることも多くなってきましたね

日本でのバレンタインデーがどれほど男女格差に影響を与えているかはわかりませんが、この時期の日本人女性は時間的にも体力的にも精神的にもコスト的にも負担があるということには変わりないと思います。

他の宗教行に独自のアレンジを加えるのが日本のいい点だとしたら、男性から女性にプレゼントをしたり、お互いにプレゼント交換をしたりするなど、もっと自由なバレンタインデーになってもいいかもしれませんね。

ということで、今回はここまでです。

もらえた人ももらえなかった人も筆者からのプレゼントとしてこの記事を受け取ってもらえたらうれしいです。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【世界史】ミャンマーの近現代史 植民地時代から2021クーデターまでの流れ

いらっしゃいませ! 人文社会科学LABOへようこそ! こちらでは、こんなことしてます。よろしければ、ご覧になってみてくださいね。

miyamot.hatenablog.com

いきなりですが、ミャンマーでのクーデターなかなか大きな話題となっていますね。筆者としても衝撃的で、間違いなく歴史に刻まれる出来事だったのではないかと思います。

 

ミャンマーと言えば、ロヒンギャ問題が記憶に新しいですが、ここにきてさらに混迷を極めていきそうですね。

ということで今回は、先行き不透明なミャンマーを理解するための基礎知識として高校までの世界史をおさらいしてから一歩踏み込んだ解説をしていきたいと思います。

 

 

1.ミャンマーとは

まずは、ミャンマーとはどんな国なのか基本中の基本をおさらいしておきましょう。

いろんな意味で日本と関わりが深い国なので、きっと聞いたことがある内容もあるかもしれませんね。一気にまとめて整理しておきましょう。

1-1.ミャンマーの基礎知識

まず位置ですが、地図を示しておきますね。

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次に基本情報をまとめておきます。

少し補足をしておきますね。

ミャンマー共和制(君主、王様などが治めてはいない)の国になります。国土は東南アジア本土最大であり、アジアのなかでは10位の面積を誇ります。日本が大体38万㎢なので、日本の大体1.8倍の広さですね。

人口については、大体7割がビルマ族です。その他の民族としてはカレン族カチン族ロヒンギャ族などがおり、多くの民族を抱えた多民族国家になります。

これらの民族はもちろん文化や風習も異なります。宗教については、人口の約9割が仏教徒(内8割以上は上座部仏教であり、残り1割のなかにはイギリス植民地支配の名残でキリスト教徒がいたり、バングラデシュと近いこともありイスラム教徒がいたりします。

今回のクーデターを考えるにあたって、人口構成と宗教、民族はキーワードになってくるので覚えておいていただけると分かりやすいかと思います。

2.ミャンマーの歴史

では、次にミャンマーの歴史についておさらいしていきましょう。ここからはガッツリ高校世界史の内容になってきますが、初めての方でも理解しやすいようにいくので気楽に読んでいってくださいね。

なお、今回は先日のクーデターに絡めた内容になりますので、論点は近現代に絞っていきます。

2-1.イギリス植民地時代

時は19世紀、ヨーロッパ列強がアジア諸国を次々と植民地化していく帝国主義の時代。ミャンマーがまだビルマと呼ばれていた頃です。年表をまとめておきますね。

  • 1765年 イギリス東インド会社がインドの徴税権と行政権を獲得。
  • 1824年~1826年 第1次イギリス=ビルマ戦争ビルマ敗北。領土割譲と賠償金を義務付けられる。)
  • 1851年 第2次イギリス=ビルマ戦争ビルマ敗北。ラグーンなどの一部地域がイギリス領に。)
  • 1885年 第3次イギリス=ビルマ戦争ビルマ敗北。ビルマがイギリス植民地化。インドとビルマをまとめてイギリスが支配するように。)
  • 1930年 反イギリス組織「我らビルマ人協会」(タキン党)が結成。
  • 1938年 タキン党アウンサンらによって反英独立闘争が激化。
  • 1940年 タキン党の幹部がイギリス当局により逮捕。タキン党は壊滅し、アウンサンは日本に亡命

ビルマのお隣インドでは18世紀後半、すでにイギリスが東インド会社(インド支配を行う機関)を設置し、周辺地域の支配権拡大を進めていました。

帝国主義の魔の手が伸びてきたのが1824年、イギリスがビルマ支配に動き出します。3度にわたるイギリス=ビルマ戦争によりビルマは敗北し、イギリスの植民地となりました。

ここで大事なのが、ビルマより前にイギリス植民地であったインドとまとめて支配したということになります。これには分割統治と呼ばれる方法がとられました。

  • 分割統治:被支配者同士を争わせることで統治を容易にする手法。

具体的にどうやったか。

支配者のイギリスは、被支配者であるビルマ内部に対立構造を作り出します。以前から支配していたインド(厳密には現在のバングラデシュ)からイスラム教系のロヒンギャ族ビルマに労働力として連れてきました。

イスラム教系のロヒンギャ族と仏教系のビルマ族。文化や風習、価値観などが違いますからうまくいかないことも多いです。こうしてビルマ内部に不和を生むことでイギリスに反旗を翻す隙を作らせないようにしたわけですね。これが後々の民族問題として尾を引いていきます。

分割統治のイメージ図を載せておきますね。

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イギリスによるビルマの分割統治

こうした中で、イギリスによる支配や他民族との接触ビルマ族民族意識の高まりに繋がっていきました。

1930年ビルマの完全独立を目指して「我らビルマ人協会」(タキン党が結成されます。ところが、激しい運動によって1940年に幹部の多くはイギリス当局によって逮捕されてしまいました。このとき、タキン党幹部の一人であるアウンサンは日本に亡命します。彼は、今回取り上げたニュースのアウンサンスーチーの父親になります。繋がりが見えてきましたね。

2-2.日本軍政時代

日本に亡命したアウンサンは、イギリスをビルマから排除し、完全独立を達成するための準備を進めます。一方、日本はというと日中戦争1937年~1945年真っ只中でしたが、中国を攻略できずにいました。

  • 1937年 日中戦争が勃発。
  • 1940年 アウンサンが日本へ亡命。
  • 1941年 太平洋戦争が勃発。アウンサンビルマ独立義勇軍(BIA)設立。
  • 1942年 日本軍ビルマを占領。
  • 1943年 日本がビルマ形式的な独立を認め、ビルマ国が誕生。
  • 1945年 アウンサン主導の反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が抗日武装闘争を開始。

こうした状況の中で、ビルマ完全独立を目指すアウンサンの亡命は、日本に新たな一手を計画させます。ビルマ親日政権ができたら日中戦争を優位に進められるし、イギリス植民地の最大拠点であるインドへの侵攻もしやすくなると。

ビルマからイギリスを排除したいアウンサンと中国やイギリスに対抗するための新たな拠点が欲しい日本の利害がイギリスが邪魔だという点で一致したわけですね。

そして、1942年アウンサンは日本軍のビルマ侵攻に加わり、ビルマからイギリスを排除することに成功します。

問題はここからですね。

日本はビルマを新たな拠点にしたいわけですから、もちろん親日政権を設置します。それがビルマ国です。アウンサンはどうでしょうか。日本の傀儡政権が欲しかったわけじゃないですよね。目指したのは完全独立です。どの国からも指図を受けない独立国家を樹立したかったはずです。ここで意見の相違が出てきます。

これに対して、日本は一応ビルマの独立を認めますが、これは形式的なものに過ぎず、実質的には親日政権が継続しました。

ここからアウンサンの戦いは、敵がイギリスから日本になり、1945年から抗日運動を展開していきます。しかし、この運動は長続きしません。1945年は何の年かわかる方も多いかもしれませんね。

そうです。第二次世界大戦の終了(日本の敗戦)の年ですね。日本はビルマから手を引き、この年以降再びイギリスとの戦いが始まります。

2-3.独立

1945年の日本にはもう戦える力は残っていませんでした。

何度も作戦失敗を繰り返し日本が敗戦も秒読みというなか、ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を率いるアウンサンイギリスと手を組んで日本と戦います。これは2-2.で見た日本と手を組んでイギリスを排除したのと構造は同じですね。イギリスと日本が入れ替わっただけです。結果、日本の排除には成功しますが、せっかくビルマを取り返したイギリスが独立を許すはずもなく、イギリスの支配が復活します。

  • 1945年 アウンサン主導の反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)やビルマ国民軍(ビルマ独立義勇軍(BIA)の後身、通称国軍)がイギリスと手を組んでビルマ国から日本を排除イギリスのビルマ支配が復活
  • 1947年 アウンサンがイギリスとの独立協定に調印。その後、アウンサン暗殺。
  • 1948年 「ビルマ連邦としてイギリスから独立。(初代首相ウー・ヌ)

ビルマの完全独立に向けて戦いを繰り広げたアウンサンですが、イギリスとの独立協定を結んだ後、独立まであと一歩というところで国内の政敵の手により暗殺されてしまいます。積年の夢であったビルマの独立をアウンサンはついに見ることはありませんでしたが、彼の死の1年後にビルマ議会制民主主義ビルマ連邦として独立を実現します。

ここまでがビルマミャンマー)独立までのお話になります。ようやくここまで来たって感じですね(笑)

戦争や民族同士の争い、アウンサンの死など多くの犠牲を払って実現した独立。めでたしめでたし。とはいかなかったんですね。ここからビルマミャンマー)は内政問題に直面していくことになります。

2-4.独立後の内憂

ここからは先日のクーデターとの繋がりがより濃厚になってきます。民族や宗教、政治的思惑が絡んだ複雑な内政問題について見ていきましょう。

2-4-1.軍部独裁時代 ビルマ連邦社会主義共和国

まずは、政治的な内政問題から見ていきましょう。

ビルマ連邦議会制民主主義の国として出発します。当然、これは政治的な派閥を生み出します。

  • 議会制民主主義:国民の代表機関である議会が、立法という形で国の意思決定を行う政治体制。代議制民主主義、間接民主制とも呼ばれる。

今の日本の政治形態を想像してもらうと分かりやすいかと思いますが、要するに話し合いで国のことを決めるということになります。ぱっと見はみんなの意見が出そうでいい気がしますが、これは悩ましい点もあります。

学級会とかでもありませんでしたか。結論が出ずに延々と話し合いが終わらないこと(笑)

政治でもこれが起こりうるわけですね。とはいえ、永遠に議論を続けても何も決まらないから最終的には伝家の宝刀「多数決」をとります。

多数決ということは自分と同じ考えの人が一人でも多くいてほしいので、グループができるわけですね。これが政治的な派閥(政党など)になってきます。

少し前置きが長くなりましたが、まとめると「独立後の国の主導権を誰が握るか問題」が発生したわけですね。

ビルマの独立には多くのアウンサンだけでなく、その他多くの国内勢力も助力しました。そんななかでようやく勝ち取った独立です。自分たちのことは自分たちで決めたいと各々の勢力が思うことは自然ですね。これは、政府が一枚岩にならない大きな原因になりました。

さらに、拍車をかけたのが、「国内の民族意識の高揚」です。

多民族国家ビルマ連邦ではいろんな意見があり、政治勢力も分化しやすいというのは想像できるかもしれませんが、なかにはビルマ連邦に反対の民族もいました。自民族だけの国家を作ろうと考える民族も一定数いたというわけですね。

特にタイ系のシャン族や漢民族系のコーカン族などは独立意識が高く、キリスト教徒が多いカレン族やカチン族は仏教系のビルマ民族が大多数を占める「ビルマ連邦」に対して反発していました。

こうした反乱や反発を悉く鎮めて立場を強めた勢力があります。それがアウンサンが組織したビルマ独立義勇軍(BIA)の後身、ビルマ国民軍(国軍)でした。

当時の国軍のトップはネウィンと呼ばれる人物で、彼が国軍を率いてクーデターを起こします。リーダーシップを発揮できない政府や国家一丸を阻害する議会制民主主義の制度に反発するものでした。

具体的には、政党がビルマ社会主義計画党(BSPP)しか許されず、国家機関の役職はすべて軍人か退役軍人が独占するようになっていきました。バラバラな国家をまとめ上げ、自分がビルマを率いていこうという意思が感じられますね。

こうしてビルマ連邦は、1974年ネウィンが指揮する一党独裁の軍事政権国家ビルマ連邦社会主義共和国として新たなスタートを切っていきます。

2-4-2.アウンサンスーチーの登場と国号「ミャンマー」へ

国軍を率いるネウィン主導のビルマ連邦社会主義共和国はどうなったか。

ネウィンはやはり軍人だったのかもしれません。武力で政権をとる戦いのことはわかったかもしれませんが、政治のことはわからなかったようです。うまくいきませんでした。

独自の社会主義システムで国家運営を試みましたが、これを強引に進めた結果、経済混乱貧困の増加などを招き、当時の社会主義あるあるな道を辿っていきます。

こんな状況を国民が快く受け入れるはずもなく、当然、民主化運動が起こり、いよいよアウンサンの娘であるアウンサンスーチーが登場します。

  • 1988年3月13日 首都ラングーンで大規模な民主化デモが発生。国軍の発砲により学生が死亡。全国各地へ民主化デモが波及。
  • 1988年7月23日 ネウィン退陣。(退陣後も影響力は持つ
  • 1988年8月8日 一党独裁の打破を目的とした大規模な民主化デモが発生。国軍はこれに無差別発砲を行う。
  • 1988年8月26日 アウンサンスーチー民主化を求める演説を行う。民主化運動の象徴的存在へ
  • 1988年9月18日 ネウィンに代わって国軍の実権を握ったソウマウンが軍事クーデターを起こし、独裁軍事政権が復活。国号「ビルマ連邦」へ。ただし、複数政党制の実現と総選挙の実施を約束
  • 1988年9月27日 アウンサンスーチー国民民主連盟(NLD)を結成。
  • 1989年 アウンサンスーチーが軟禁される。国号「ミャンマー」(首都はラングーンからヤンゴン)へ
  • 1990年 総選挙の実施。国民民主連盟(NLD)の圧勝軍部は政権の移譲を拒否。

1988年の一連の民主化運動を8888民主化運動と呼びます。

多発する民主化運動に軍部は容赦なく武力行使を行っていきましたが、それでも国民の勢いは止められず、ネウィンは退陣に追い込まれ、ビルマ社会主義計画党(BSSP)一党独裁は崩壊しますが、彼はこの後も影響力はもち続けてデモに対して軍部の発砲は止まりませんでした

そんななか、アウンサンスーチー民主化を求める演説を行ったことでビルマ民主化の象徴となっていったわけですね。

一方、ネウィンが退いた軍部では、このままでは埒が明かないと軍部のソウマウンビルマ社会主義計画党(BSSP)の政治的空白を狙って軍事クーデターを起こします。これによって再び軍事政権が復活するのですが、ソウマウン複数政党制の実現総選挙の実施を約束します。

こうして来るべき選挙に向けて多くの政党ができ始めました。アウンサンスーチー国民民主連盟(NLD)を結成し、選挙に備えたわけですね。

このまま民主化を実現していきそうな気配がしますが、軍部にそのつもりはなかったようです。

総選挙1990年に実施で、アウンサンスーチーはその1年前に軟禁され、外部との接触を禁じられます。このタイミングあまりにもきな臭いですよね(笑)さらに、アウンサンスーチー不在のなか行われた総選挙では、国民民主連盟(NLD)が圧勝したにもかかわらず、軍部は政権移譲を拒否しました。これには政権を手放したくないという態度が露骨に出ていますね(笑)以降、アウンサンスーチーは軟禁と解放を繰り返すことになります。

ちなみに、軟禁が開始された1989年に国号がミャンマーへと変わっています。ここからなじみ深いミャンマーの国名になったわけですね。

2-4-3.国際的関心の高まりとアウンサンスーチー政権の樹立

総選挙後、民主化は実現しないまま軍事政権が続き、アウンサンスーチーは軟禁状態。民主化を求める国民にとっては絶望的な状況でしたが、変化も起き始めます。

この時期に始まる「変化」のキーワードは国際的な関心の高まりです。

アウンサンスーチーノーベル平和賞受賞はかなり大きなきっかけになりました。他国の目が向けられることで軍部は形式的にでも民主化するつもりがあると示さざるを得なくなったわけですね。

ですが、やはり政権を渡すつもりはなかったようで首都をヤンゴンからネピドーへと移しています。ここはヤンゴンに比べてかなりの荒野地帯になります。娯楽施設や飲食店などはほとんどなく、民主化デモや反乱に備えた要塞にしたのではないかと言われています。

その後、軍事政権はさらに国際批判を浴びます。2007年ヤンゴンでの大規模な民主化デモに武力行使を行い、日本人ジャーナリストの長井健司さんが亡くなるという大変痛ましいことが起きます。他の外国人ジャーナリストも負傷したこともあり、軍部の武力行使には国内外から批判が相次ぎました。

そこから、憲法の制定総選挙の実施など表面上は民主化の体裁を整えますが、国際社会の目はもう欺けないところまで来ていました。批判だけではなく、経済制裁も加えられ、ついにアウンサンスーチーが軟禁を解かれます。その後は、年表の通りです。

ようやく国政のトップにたったアウンサンスーチーはどんな政治をしていったのでしょうか。

2-4-4.現在までのアウンサンスーチー政権

2015年から事実上、国政のトップに立ったアウンサンスーチー。ようやく実現した民政でしたが、軍部と民族はもちろん、新憲法も複雑に絡み合ったなかで進めていかなくてはなりませんでした。

実は、2015年総選挙アウンサンスーチーミャンマーの大統領候補になっています。ところが、憲法では配偶者が外国人の場合、大統領になれないという規定があり、外務大臣に留まりました。(アウンサンスーチーの配偶者はイギリスの方です。)そのため、アウンサンスーチーに代わって名目的な大統領が選出されることになります。

アウンサンスーチーはこの状況に対して、大統領はあくまで名目的な存在であり、行政の権限は自ら行使すると表明しました。実際に2015年以降、国家顧問や大統領府大臣など行政の要職を兼任することで、行政権を掌握しながら政治を進めていきます。

ここまででどうでしょうか。「あれ?なんか独裁っぽい...。」と思う方もいるかもしれませんね。実際、そういう評価もされています。

こうした見方が特に強くなったのは、2017年ロヒンギャ問題です。

この事件に対して、国際社会はアウンサンスーチー政権にロヒンギャ族の保護を求めます。しかし、ミャンマー政府は以前からロヒンギャ族バングラデシュからの不法移民とみなしており、今でも差別や迫害が続いています。これにより実質的に政治のトップであるアウンサンスーチーに批判が集中するようになりました。

アウンサンスーチーロヒンギャ問題の解決に動き出さなかった理由については、様々な見方があります。以下、よく言われているものを2つ挙げておきますね。

  • 人口の70%がビルマ族、90%が仏教徒を占める国内で円滑な政治をするためには、彼らの支持を失う可能性があるロヒンギャ族イスラム教徒)の救済に乗り出せなかった。
  • 憲法上でも政治について一定の影響力をもつことが保障されている軍部が起こした事件を批判することで、円滑な政治ができなくなったり、クーデターを起こされたりすることが懸念された。

今あげた見方は主要なものの一部です。他にも様々なことが言われていますが、何にせよ、国内の政治勢力や民族、宗教、憲法など多くの視点から政治を行う必要があるということには変わりありません。

こうした状況の中で2020年11月総選挙が行われ、アウンサンスーチー政権の2期目が決まりましたが、その3か月後の2021年2月、軍部のクーデターによりアウンサンスーチーは拘束されました。

3.まとめ 民政派と軍政派の戦いは終わっていない

いかがでしたでしょうか。今回は、ミャンマー近現代史を一気に見てみました。

ここまでの内容を踏まえて今回のクーデターを考えてみると、そこには「民族」「軍部」「憲法というテーマが浮かび上がってきます。

ミャンマーの民主政治は、イギリス植民地時代から続く民族同士の不和や軍部との関係を憲法に従って調整しながら進めなければなりません。民族問題と軍部については、お分かりいただけたかと思うので、ここでは憲法について補足して、終わりにしたいと思います。

2-4-4.で軍部は憲法上一定の影響力が認められると書きましたが、具体的に見てみましょう。

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ミャンマー憲法改正規定

この他、安全保障分野の閣僚も軍部が務めるなどの規定もあります。

この規定のため、アウンサンスーチーが軍部の排除を目指して憲法改正をしようにも現憲法では上記図のように規定されているため、簡単にはいかないわけです。民族問題もある中で498議席全てをとらないといけないわけですからね。

軍部を排除できないなら、うまく付き合っていく他ありませんが、ここまで読んでみてどうでしたでしょうか。アウンサンスーチーは軍部とうまく付き合えていたでしょうかね。

ミャンマーの近現代は民政派と軍政派の戦いの歴史でもあります。それは、アウンサンスーチー政権の樹立によって終止符が打たれたわけではなく、いまだに続いているということを思い知らされる事件だったと筆者は考えています。

ということで、今回はここまでです。

今回はミャンマー近現代史に絞り、他国との絡みは割愛しています。そこも考えるとより深い理解に繋がるかと思うので、気になった方はぜひ調べてみてください。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。

【日本史】真言宗の世界観 「宇宙にお寺ができる」とは

いらっしゃいませ! 人文社会科学LABOへようこそ! こちらでは、こんなことしてます。よろしければ、ご覧になってみてくださいね。

miyamot.hatenablog.com

先日、いつものようにニュースを見ていると、なかなか面白いニュースが出てきたので今回はそのニュースに関連した解説をしていこうと思います。

そのニュースがこちらです!

どうですか?なかなか面白い試みですよね!これで地球外の宇宙に仏教を象徴するお寺ができるんですから、まさに宇宙時代って感じです。

ちなみに今回この試み行う京都の醍醐寺は仏教のなかでも真言宗のお寺になります。

ということで今回は真言宗について解説していきます。なぜ、醍醐寺が宇宙進出に動き出すのか。もしかすると少しわかるかもしれません。

それではいってみましょう!

 

 

1.真言宗

真言宗と言えば、平安時代の仏教の宗派の一つで、開祖が空海ですね。中学生までの知識だとこの辺まで学びますが、高校の日本史ではもう少し詳しく学びます。

まずは高校までの日本史の内容を見てから今回の宇宙進出について見ていきましょう。

1-1.奈良仏教

平安仏教として真言宗が出てきた背景には、その前の奈良仏教が大きくかかわってきます。まずは、そこから見ていきましょう。

紀元前5世紀ごろ、ガウタマ=シッダールタが仏教を開き、6世紀中ごろ(飛鳥時代)に日本にも仏教が伝来します。その後の奈良時代に仏教は鎮護国家思想と相まって発展します。

  • 鎮護国家思想:仏教によって国家の安定を図ろうとする考え方。

この考え方自体は小学生でも習いますが、ここで大切なのは、上記の赤い下線部になります。

つまり、奈良時代の仏教は、大規模な国家プロジェクトであったという点です。そんな一大事業に関わるわけですから、当時の僧(仏教のお坊さん)は海外から入ってきた仏教を理解することができるスーパーエリートでした。

そうしたこともあり、当時の仏教は多くの民衆にわかりやすく広げていくものというより、僧(仏教のお坊さん)が仏教の神髄に迫るために研究していくものという意味合いが強かったわけですね。

この状況で出てきたのが、南都六宗と呼ばれる仏教の各グループです。

それぞれが行ったのは布教というより、仏教理論の研究です。ですから、宗派ではなく学系と定義されるわけですね。ちなみに、行基という人物を習った方も多いかと思いますが、彼は南都六宗法相宗の出になります。

少しイメージをまとめると、奈良時代は僧(仏教のお坊さん)が仏教の研究者で南都六宗が研究機関だと思ってもらうとわかりやすいかもしれません。

1-2.平安仏教

奈良時代に1つの研究体系として国家に組み込まれた仏教ですが、これはマズい状況も生み出しました。

今回は詳しい解説は省きますが、南都六宗法相宗から道鏡という人物が登場します。彼は僧(仏教のお坊さん)でありながら、当時の身分のトップである天皇を差し置て政治の全権を掌握するにまで至ります。

とはいえ、やはり僧(仏教のお坊さん)です。当時の天皇や貴族中心の身分制度が敷かれた社会では、彼の政治は受け入れられませんでした。死後も評判はかなり悪かったようで、日本三悪にも数えられています。(※最近の研究ではこの評価の見直しがされているようです。)

こうした状況を踏まえて、平安時代では仏教が政治に関与することを嫌う風潮が出てきました。しかし、今まで仏教は国家プロジェクトとして発展してきたわけですから、主要な南都六宗はなかなか政治から切り離せない。

そこで、南都六宗に替わる新たな仏教が望まれるようになり、出てきたのが平安仏教になります。

平安仏教は、最澄天台宗空海真言宗になります。

簡単に図で比較してみましょう。

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今回は真言宗に焦点を絞るので違いについては、ざっくりでも構いません。また、わからない言葉が多いかと思いますが、真言宗については後述するので焦らなくて大丈夫です。

早速、天台宗と比較しながら真言宗の大枠を掴んでいきましょう。

1-3.真言宗の考え方

先に論点を示しておきますね。真言宗の宇宙進出を理解するうえで大事なポイントは、奈良仏教と平安仏教との違い真言宗天台宗との違いの2点です。

先程示した図とこの2つの視点を頭に入れて見ていくと整理しやすいかと思います。

1-2-1.密教顕教

まずは顕教密教の違いについて見ていきましょう。

奈良仏教は一種の学問として僧(お坊さん、当時のエリート)によって研究されてきましたね。研究には専門知識や文献が欠かせませんが、南都六宗では、それぞれの仏典や仏教理論で研究をしていました。これらは、ことばや文字で理解することができます。間違った問題の解説を見て「あー、なるほど!」となるようなものです。こうしたものを顕教と言います。

  • 顕教:仏教で明示的な経典などから悟りを開こうとする考えや仏教の一派。

つまり、奈良仏教南都六宗顕教という特徴をもっていたわけですね。

一方で、平安仏教はというと密教がその特徴になります。

  • 密教:経典などの言葉だけでは理解できない部分にこそ悟りがあるとする考えや一派。

これはなかなかイメージしにくいところですよね...。

こんな話を聞いたことがありませんか?

厳しい修行によって思考が高次元に到達するとか、極限状況において何かが覚醒するとか。(なんだか怪しいと思われそうですが(笑))

つまり、言語化はできないが、ある種の真実や真理を体感するといったようなことですね。密教では、こういった状態を悟りとみなすわけです。

だから、奈良仏教のように経典など(言葉だけで理解できるもの)によって悟りを開くのではなく、言葉によらない悟り(体感する悟り)を目指します。

この考え方は、平安仏教での修行に現れてきます。例えば、真言宗では経典がありますが、その言葉そのものを理解するというより、行間も含めた経典の中にある意味やメッセージを読み取ろうとしますし、修行は精神的にも肉体的にも厳しいものになってきます。千日回峰行を聴いたことがある方もいるかと思いますが、これは天台宗の修行の1つですね。

難解な本を苦しみながらも何度も読み、あるときハッと理解するような感覚に近いかと思われます。

以上が密教の大枠になりますが、真言宗天台宗では密教の扱い方は少し異なります密教を本格的に導入したのは空海でした。時期的には最澄が先なのですが、確立していない部分があり、後に最澄の弟子(円仁円珍)によって天台宗密教が完成されます。

天台宗では、一時的に南都六宗顕教)との争いが生じますが、後に密教が完成されて仏教における総合学府的なポジションとなったことで、顕教密教も悟りの道として考えられるようになりました。一方、真言宗では悟りの道は密教のみであると考えられました。

1-2-2.大日如来とは

では、次に真言宗本尊について見ていきましょう。

仏教と言えば、開祖のブッダガウタマ=シッダールタ、お釈迦様、釈迦如来)をイメージする方も多いかもしれませんね。平安仏教天台宗でも本尊として信仰されていますが、真言宗の本尊はブッダではありません。

  • 本尊:信仰の対象となるもの。仏教では、仏や菩薩、彫刻、曼荼羅など。

上記の図を見てもらえるとわかるかと思いますが、真言宗における本尊は大日如来になります。先にどういった存在か簡単に説明しておきますね。

  • 大日如来この世の森羅万象を仏格化した存在宇宙そのものであり、この世のあらゆる存在と現象が大日如来とされる。

大日如来密教の中で生まれた存在になります。ここで重要になってくるのが、大日如来と仏教の開祖であるブッダとの関係です。ここも真言宗天台宗で異なってきます。

天台宗では大日如来ブッダ(釈迦如来)は同一同格とされますが、真言宗では最高次の存在を大日如来として、ブッダの存在も彼の悟りも大日如来の一面であると考えられています。つまり、大日如来ブッダの関係が天台宗では同格で、真言宗では同格ではないということになりますね。

なかなかイメージしにくいかと思うので、例を挙げてみますね。

エスが開いたキリスト教では、全知全能の創造主が最高神であり、イエスはその神の子として神の意志を伝ええるために、人間界に遣わされて存在になりますね。大日如来ブッダの関係もこれと似ています。大日如来最高神ブッダはイエスの立場に近いです。

ただし、上記の例はあくまで仏教における大日如来のポジションをイメージしやすくするためのものです厳密には多くの違いがあるということに注意していただけると幸いです

以上を踏まえて真言宗をまとめてみると、真言宗では密教によって宇宙そのものである大日如来と一体化するという意味での悟りを目指していくことになります。

1-2-3.曼荼羅(まんだら)

最後に密教芸術として有名な曼荼羅の解説と合わせて、真言宗の世界観を見ていきましょう。

密教とは、体感する悟りを目指したものでしたね。そして、真言宗では、宇宙森羅万象そのものとされる大日如来と一体化する悟りが目指されていました

でもこれ、いまいちピンとこない感じがしませんか?言葉のレベルを超えたところに悟りがあるというのは、なんとなくわかるとしても、どうやってそれを実現していくのか、なかなか難しそうですよね。

そこで用いられるのが、曼荼羅になります。密教の構造や世界観を目で視覚的に取り込み、それを心身に落とし込んでいくわけですね。

大日如来(宇宙)と一体化すると言っても、宇宙がどんなものか、一体化するとはどういうことかが全くイメージできなければ、真言宗が意図する悟りへの到達は不可能に近いですね。なんてったって言葉だけじゃ理解できないわけですからね。海図も航海術も分からない人が航路を確立するのは無理なのと同じです。

実際にどんなものか見てみましょう。

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両界曼荼羅胎蔵界

上記の曼荼羅両界曼荼羅と呼ばれるものになります。これは真言宗曼荼羅真言密教における世界観(宇宙の姿)になります。

中心に座しているのが大日如来で、その周りを他の仏や菩薩が囲んでいますね。大日如来が宇宙そのもので、すべての中心というイメージが視覚的にわかるようになっています。

少し補足ですが、1-2-2.の内容を思い出してみましょう。

真言宗において、大日如来は宇宙そのものでブッダもその悟りも大日如来の一面にすぎないと考えらていましたね。この曼荼羅に描かれた大日如来を囲む仏や菩薩は、すべて中心に座す大日如来の一面になります。だから、真言宗の宗派のなかには大日如来と同一視して他の仏や菩薩を本尊とするお寺もあります。

他にも曼荼羅は宗派や用途によって様々な種類があり、今でも儀式や修行で使われます。まさに、体感する悟りを目指した密教ならではの文化財ですね。

2.まとめ 宇宙にお寺ができるとは

最後に、今回の内容を踏まえて醍醐寺の宇宙進出について考えてみます。

今回、宇宙進出を試みる京都の醍醐寺は、真言宗のお寺になります。厳密には、真言宗醍醐派と呼ばれる宗派で、空海真言宗とは異なる面もありますが、密教寺院ということは間違いありません。真言密教の世界観は継承、踏襲されているということですね。

そう考えると、今回の宇宙進出は至極当然のように思えてきます。

近年は宇宙時代なんて呼ばれたりしますね。科学的にわからないことの方が圧倒的に多いですが、人類は確実に宇宙についての理解を少しずつ深めていっています。

「科学的に」と言うと「宗教」とは交わらない感じがするかもしれませんが、宇宙というテキストは人類共通です。その見方や考え方が異なるだけですから、宇宙観が変わったとき、科学と同じく宇宙という概念をもった真言宗の在り方も変容やアップデートされて何ら不思議ではありません。

今回のニュースはそれを象徴する出来事だったのかもしれませんね。ある時から科学と宗教は袂を分かち、進んできましたが現代になって両者は交錯し始めているのかもしれません。

私自身は何かしらの宗教の信者ではないため、地球外の天体に人類が住むということをイメージしたとき、宗教や信仰といった地球で形成された文化が地球外に輸出されることまでは想像できていませんでした。今回のニュースは、そこに気づきを与えてくれる出来事だったと思っています。地球の文化が宇宙へ進出する。なかなかロマンがありますね。

最後は筆者の感想まで入ってしまいましたが、今回はここまでです。

感想、質問、リクエストなんでもウェルカムなので、ぜひ気軽にくださいね。お待ちしてます。 ではまた次回お会いしましょう。